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	<title>ニューホープチャーチ掛川礼拝メッセージ集</title>
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	<description>掛川市にあるキリスト教の教会　　†ニューホープチャーチ掛川†　　</description>
	<pubDate>Sun, 15 May 2011 07:27:43 +0000</pubDate>
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		<title>5月15日（日）伝道礼拝メッセージより「神はわが助け」</title>
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		<pubDate>Sun, 15 May 2011 07:26:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
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		<itunes:author>ニューホープチャーチ掛川</itunes:author>
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		<title>5月15日（日）伝道礼拝メッセージより「神はわが助け」要旨</title>
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		<pubDate>Sun, 15 May 2011 07:12:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「神はわが助け」（ルカによる福音書16章19節～31節）　
　ある金持ちが、毎日贅沢に遊び暮らしていました。彼の立派な大きな家の門前にラザロという全身おできで覆われた貧乏人が寝ていました。ラザロは、働く体力も、気力もありませんでしたので、せめて、お金持ちの食卓から落ちる物で、空腹を満たしたいと思っていました。
　やがて、この貧乏人のラザロは死んで天国に行きました。金持ちも同様に死んで葬られたのですが、その魂はハデスという火の炎が燃え続けている地獄に行きました。
　金持ちが苦しみながら、目を上げますと、はるかかなたにアブラハムとラザロが見えました。思わず、金持ちは、この信仰の父と呼ばれるアブラハムに向かって叫びました。「父アブラハム様、私を憐れんでください。ラザロが指先を水に浸して、私の舌を冷やすようにラザロをよこしてください。私は、この炎の中で苦しくてたまりません。」
　しかし、アブラハムの答えは、否定的なものでした。金持ちは生涯良いものを受け、恵まれていたにも拘らず、それを神のため、人のために用いなかったために、今は、このように苦しみ悶えている。それとは、対照的に生前悪いものを受けていたにも拘らず、神を呪わず、不信仰に陥ることの無かった貧乏人ラザロは、天国で慰められているというのです。
　ちなみに「ラザロ」とは「神が助けてください。」の意味です。聖書によれば、天国とハデスという地獄との間には、大きな淵があって、相互の行き来はできないのです。そこで、金持ちは、自分のことはあきらめ、その代わりにせめて、まだ、地上にいる肉親たちのところにラザロを送ってほしい。そして、自分の二の舞を演じないように、早く、警告してやってほしいと申し出ました。
　しかし、地上の肉親には、聖書が与えられています。救いに至るには、それで十分です。生きている者たちは、聖書に聞くべきです。
　私たちは、この金持ちとラザロのたとえから、死後の事柄について学ぶことができます。
　第一に、お金持ちを地獄に追いやった罪は、彼が何か悪いことをしたからではなく、何もしなかったことです。「なすべき正しいことを知って医ながら、行わないならそれは、その人の罪です。（ヤコブの手紙4章17節）
第二に死後、天国へ行くか、地獄に行くかは、その人の生前の生活によって決まるということです。即ち、不信仰の不正の罪を悔い改めて、神を信じるか、信じないかによって決まってくるのです。
 
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「神はわが助け」（ルカによる福音書16章19節～31節）</strong>　<br />
　ある金持ちが、毎日贅沢に遊び暮らしていました。彼の立派な大きな家の門前にラザロという全身おできで覆われた貧乏人が寝ていました。ラザロは、働く体力も、気力もありませんでしたので、せめて、お金持ちの食卓から落ちる物で、空腹を満たしたいと思っていました。<br />
　やがて、この貧乏人のラザロは死んで天国に行きました。金持ちも同様に死んで葬られたのですが、その魂はハデスという火の炎が燃え続けている地獄に行きました。<br />
　金持ちが苦しみながら、目を上げますと、はるかかなたにアブラハムとラザロが見えました。思わず、金持ちは、この信仰の父と呼ばれるアブラハムに向かって叫びました。「父アブラハム様、私を憐れんでください。ラザロが指先を水に浸して、私の舌を冷やすようにラザロをよこしてください。私は、この炎の中で苦しくてたまりません。」<br />
　しかし、アブラハムの答えは、否定的なものでした。金持ちは生涯良いものを受け、恵まれていたにも拘らず、それを神のため、人のために用いなかったために、今は、このように苦しみ悶えている。それとは、対照的に生前悪いものを受けていたにも拘らず、神を呪わず、不信仰に陥ることの無かった貧乏人ラザロは、天国で慰められているというのです。<br />
　ちなみに「ラザロ」とは「神が助けてください。」の意味です。聖書によれば、天国とハデスという地獄との間には、大きな淵があって、相互の行き来はできないのです。そこで、金持ちは、自分のことはあきらめ、その代わりにせめて、まだ、地上にいる肉親たちのところにラザロを送ってほしい。そして、自分の二の舞を演じないように、早く、警告してやってほしいと申し出ました。<br />
　しかし、地上の肉親には、聖書が与えられています。救いに至るには、それで十分です。生きている者たちは、聖書に聞くべきです。<br />
　私たちは、この金持ちとラザロのたとえから、死後の事柄について学ぶことができます。<br />
　第一に、お金持ちを地獄に追いやった罪は、彼が何か悪いことをしたからではなく、何もしなかったことです。「なすべき正しいことを知って医ながら、行わないならそれは、その人の罪です。（ヤコブの手紙4章17節）<br />
第二に死後、天国へ行くか、地獄に行くかは、その人の生前の生活によって決まるということです。即ち、不信仰の不正の罪を悔い改めて、神を信じるか、信じないかによって決まってくるのです。<br />
 </p>
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		<item>
		<title>5月8日（日）礼拝メッセージより「霊とまことによる礼拝」要旨</title>
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		<comments>http://nhck.jpn.org/?p=766#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 08 May 2011 07:09:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[霊とまことによる礼拝」(ヨハネによる福音書4章13節～26節）
　(神と礼拝するものは、霊とまことによってれいはいしなければなりません。)というとき、これは、実は私が礼拝できていることのうちに、その背後に神の力が働き、神のイニシヤティブが働き、神様が私を礼拝させてくださっており、神様がみ霊をもって私を信の礼拝者として、生み出してくださっているのだということを自覚しようではないかということです。
　私たちが、この礼拝において、讃美歌を歌い、祈りをささげて、神を崇めるだけではなく、まず、礼拝に来ることができたことにおいて、神を崇める感謝するのです。私が、神を父として、礼拝するものとされたこと、そのことにまず、神の御手を認め、神の導きを認め、そこに感謝と賛美をささげる・・・・・・このことがないならば、父なる神を霊とまことによって礼拝しているということには、ならないわけです。これは、ただ父なる神が求めだしてくださり、父なる神が見出して下さらなければ、できないことです。
　本当に、現代のような多事多難な忙しい時代の中で、私たちがこのように整えられて礼拝を守り続けることが、できるものとされていること、これは、考えれば、奇蹟であります。今の時代に誰が私たちのようにこのように一週間の生活を整えてでも、父なる神を礼拝するために教会に集い、父なる神を崇めようと願うでしょうか。私たちが、こう願うこと自体まさに、奇蹟なのであります。
　父なる神が、これを求め、父なる神が私たちを真の礼拝者として生み出してくださいますから、兄弟姉妹が今朝も、このようにして一堂に会して、父なる神に礼拝をささげることができているのです。
　(神は霊ですから）日ごとに週の初めごとに、神は力強く働きかけてくださいますから、奇蹟を今日も起こしてくださいますから、私たちは、礼拝をすることが許されているのです。そして、ほかの六日間も神は力強く働いて下さいます。
　どうか、この感謝、この賛美をまずお互いに確認しあい父なる神に捧げたいと願うものです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>霊とまことによる礼拝」(ヨハネによる福音書4章13節～26節</strong>）<br />
　(神と礼拝するものは、霊とまことによってれいはいしなければなりません。)というとき、これは、実は私が礼拝できていることのうちに、その背後に神の力が働き、神のイニシヤティブが働き、神様が私を礼拝させてくださっており、神様がみ霊をもって私を信の礼拝者として、生み出してくださっているのだということを自覚しようではないかということです。<br />
　私たちが、この礼拝において、讃美歌を歌い、祈りをささげて、神を崇めるだけではなく、まず、礼拝に来ることができたことにおいて、神を崇める感謝するのです。私が、神を父として、礼拝するものとされたこと、そのことにまず、神の御手を認め、神の導きを認め、そこに感謝と賛美をささげる・・・・・・このことがないならば、父なる神を霊とまことによって礼拝しているということには、ならないわけです。これは、ただ父なる神が求めだしてくださり、父なる神が見出して下さらなければ、できないことです。<br />
　本当に、現代のような多事多難な忙しい時代の中で、私たちがこのように整えられて礼拝を守り続けることが、できるものとされていること、これは、考えれば、奇蹟であります。今の時代に誰が私たちのようにこのように一週間の生活を整えてでも、父なる神を礼拝するために教会に集い、父なる神を崇めようと願うでしょうか。私たちが、こう願うこと自体まさに、奇蹟なのであります。<br />
　父なる神が、これを求め、父なる神が私たちを真の礼拝者として生み出してくださいますから、兄弟姉妹が今朝も、このようにして一堂に会して、父なる神に礼拝をささげることができているのです。<br />
　(神は霊ですから）日ごとに週の初めごとに、神は力強く働きかけてくださいますから、奇蹟を今日も起こしてくださいますから、私たちは、礼拝をすることが許されているのです。そして、ほかの六日間も神は力強く働いて下さいます。<br />
　どうか、この感謝、この賛美をまずお互いに確認しあい父なる神に捧げたいと願うものです。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>5月1日（日）礼拝メッセージ「永遠の命への水」要旨</title>
		<link>http://feedproxy.google.com/~r/nhckjpnorg/~3/w4u8ALOVPws/</link>
		<comments>http://nhck.jpn.org/?p=765#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 30 Apr 2011 15:11:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「永遠の命への水」（ヨハネによる福音書4章1節～14節）
　聖歌229番「驚くばかりの恵」を作詞したジョン・ニュートンはイギリス人で奴隷船の乗組員でした。お父さんがその奴隷船の持ち主でしたので、彼は12歳のころから、学校にも行かないで船に乗っていたのです。
　それからの少年時代から、青年時代にかけてのニュートンの生活はもうめちゃくちゃでした。お母さんは、イエス様を信じる人でしたが、そんなお母さんの気持ちも考えずに、自分のお好き勝手に生きて、ずいぶんいろいろな悪いことをしたり、奴隷たちをひどい目にあわせてばかりいました。
　ある日のことでした。おお嵐のため、ニュートンの乗った船が沈みそうになりました。その時、ニュートンは、生まれて初めて、真剣に祈りました。そして、今までしてきた悪いことを全部悔い改めて、イエス様を信じたのです。それから、6年後のある日、神様は、ニュートンに語りかけられました。「もう、あなたは奴隷船の船乗りをやめて、陸に上がって、牧師になりなさい。」そこで、からは、神学校に行き、牧師になりました。それからというもの、ニュートンは、本乙に心優しく、熱心で、愛に満ちた人になりました。ロンドンの人々は、心から彼を尊敬しました。又、ニュートンは牧師になってからたくさんの讃美歌を作りました。その歌は、今でも世界中の多くの人々に愛され、歌われているのです。
　心から、罪を悔い改めて神様に死がたったニュートンを神様は、すばらしい働き手として用いてくださったのです。ジョン・ニュートンもまた、イエス様から(生ける永遠の命への水）を頂いた一人と言えるでしょう。まさに、イエス・キリストだけが（生ける水）を与えることのできるお方であり、そればかりではなく、その人のうちで、泉となり、永遠の命の至水がわき出て、あふれて流れ出すのです。川となって流れ出るのです。
　なんという驚くべき約束でしょうか。事実このことは、聖霊によって現実のものとなりました。クリスチャンとは、まさにこの聖霊によって生かされ、心が満たされ、喜びがあふれ出るものとされているものです。
　何がなくても、どんな境遇の中でも、喜々として喜びと感謝に満ち溢れ、輝いた人生を勝利の人生を歩み続けることができるのです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「永遠の命への水」（ヨハネによる福音書4章1節～14節</strong>）<br />
　聖歌229番「驚くばかりの恵」を作詞したジョン・ニュートンはイギリス人で奴隷船の乗組員でした。お父さんがその奴隷船の持ち主でしたので、彼は12歳のころから、学校にも行かないで船に乗っていたのです。<br />
　それからの少年時代から、青年時代にかけてのニュートンの生活はもうめちゃくちゃでした。お母さんは、イエス様を信じる人でしたが、そんなお母さんの気持ちも考えずに、自分のお好き勝手に生きて、ずいぶんいろいろな悪いことをしたり、奴隷たちをひどい目にあわせてばかりいました。<br />
　ある日のことでした。おお嵐のため、ニュートンの乗った船が沈みそうになりました。その時、ニュートンは、生まれて初めて、真剣に祈りました。そして、今までしてきた悪いことを全部悔い改めて、イエス様を信じたのです。それから、6年後のある日、神様は、ニュートンに語りかけられました。「もう、あなたは奴隷船の船乗りをやめて、陸に上がって、牧師になりなさい。」そこで、からは、神学校に行き、牧師になりました。それからというもの、ニュートンは、本乙に心優しく、熱心で、愛に満ちた人になりました。ロンドンの人々は、心から彼を尊敬しました。又、ニュートンは牧師になってからたくさんの讃美歌を作りました。その歌は、今でも世界中の多くの人々に愛され、歌われているのです。<br />
　心から、罪を悔い改めて神様に死がたったニュートンを神様は、すばらしい働き手として用いてくださったのです。ジョン・ニュートンもまた、イエス様から(生ける永遠の命への水）を頂いた一人と言えるでしょう。まさに、イエス・キリストだけが（生ける水）を与えることのできるお方であり、そればかりではなく、その人のうちで、泉となり、永遠の命の至水がわき出て、あふれて流れ出すのです。川となって流れ出るのです。<br />
　なんという驚くべき約束でしょうか。事実このことは、聖霊によって現実のものとなりました。クリスチャンとは、まさにこの聖霊によって生かされ、心が満たされ、喜びがあふれ出るものとされているものです。<br />
　何がなくても、どんな境遇の中でも、喜々として喜びと感謝に満ち溢れ、輝いた人生を勝利の人生を歩み続けることができるのです。</p>
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		<item>
		<title>4月24日（日）イースター礼拝メッセージより「主イエス・キリストの復活」要旨</title>
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		<pubDate>Sat, 23 Apr 2011 15:09:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「主イエス・キリストの復活」(マタイのよる福音書28章1節～10節）　
　ある所に、とても幸せな平和な家庭がありました。お父さんと、お母さんと、それに4歳になる男の子の三人家族でした。
　お父さんは、とても子煩悩で、男の子をとても可愛がり、仕事の合間を見ては、よくキャッチボール、サッカーのボールを一緒に転がしたりして、遊んでやりました。男の子もそういうお父さんが、大好きでした。
　ところがある日、突然病院から電話がありました。お父さんが、交通事故に巻き込まれたのです。救急車で病院に運び込まれたときは、もう新でいました。それはそれはとても悲しいお葬式でした。お母さんは、もう立っていられないほどの衝撃で打ちひしがれていました。お葬式が終わりました。そして、親戚の人たちも、それぞれ帰っていきました。大きな家に、お母さんと男の子だけが、ぽつっとと取り残されたようでした。そののち、お母さんと、男の子は、もう身の置き場もないような寂しさに襲われました。
　ある日のことでした。お母さんが、廊下を歩いていくとお父さんの部屋のドアが少しあいているのです。「おや、おかしいなぁ」と思って、中をのぞくと、男の子が壁に向かって立っていました。手にグローブとボールをもって立って、いました。そこには、お父さんが事故に会う一週間前に、虫の知らせがあったのでしょうか。ある画家に描いてもらったおとうさんの肖像画がかけてありました。その絵に向かって、男の子は立っていたのです。
　黙って、お母さんは様子を見ていました。その時、男の子が目にいっぱいの涙を浮かげて言いました。「パパー、そこから出てきてよ。キャッチボールをして遊ぼうよ。」額縁の中から、もし、お父さんが飛び出してきてくれたらどんなにうれしいだろう。そして、三人家族がしっかりと抱き合ってあの温かい、楽しい、交わりと取り戻すことができたら、どんなにいいだろう。ところが、ありえないことが事実おこったのです。イースターです。よみがえり、復活です。死によって、すべてが終わるのではない。悲しみが大きければ、大きいだけ、深ければ、深いだけ、それだけ喜びも大きいのです。大逆転が起こったのです。まさに、額縁の中から、お父さんが飛び出して来るようなことが起こったのです。それが、イースターの出来事です。イエス様のよみがえりです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「主イエス・キリストの復活」(マタイのよる福音書28章1節～10節）</strong>　</p>
<p>　ある所に、とても幸せな平和な家庭がありました。お父さんと、お母さんと、それに4歳になる男の子の三人家族でした。<br />
　お父さんは、とても子煩悩で、男の子をとても可愛がり、仕事の合間を見ては、よくキャッチボール、サッカーのボールを一緒に転がしたりして、遊んでやりました。男の子もそういうお父さんが、大好きでした。<br />
　ところがある日、突然病院から電話がありました。お父さんが、交通事故に巻き込まれたのです。救急車で病院に運び込まれたときは、もう新でいました。それはそれはとても悲しいお葬式でした。お母さんは、もう立っていられないほどの衝撃で打ちひしがれていました。お葬式が終わりました。そして、親戚の人たちも、それぞれ帰っていきました。大きな家に、お母さんと男の子だけが、ぽつっとと取り残されたようでした。そののち、お母さんと、男の子は、もう身の置き場もないような寂しさに襲われました。<br />
　ある日のことでした。お母さんが、廊下を歩いていくとお父さんの部屋のドアが少しあいているのです。「おや、おかしいなぁ」と思って、中をのぞくと、男の子が壁に向かって立っていました。手にグローブとボールをもって立って、いました。そこには、お父さんが事故に会う一週間前に、虫の知らせがあったのでしょうか。ある画家に描いてもらったおとうさんの肖像画がかけてありました。その絵に向かって、男の子は立っていたのです。<br />
　黙って、お母さんは様子を見ていました。その時、男の子が目にいっぱいの涙を浮かげて言いました。「パパー、そこから出てきてよ。キャッチボールをして遊ぼうよ。」額縁の中から、もし、お父さんが飛び出してきてくれたらどんなにうれしいだろう。そして、三人家族がしっかりと抱き合ってあの温かい、楽しい、交わりと取り戻すことができたら、どんなにいいだろう。ところが、ありえないことが事実おこったのです。イースターです。よみがえり、復活です。死によって、すべてが終わるのではない。悲しみが大きければ、大きいだけ、深ければ、深いだけ、それだけ喜びも大きいのです。大逆転が起こったのです。まさに、額縁の中から、お父さんが飛び出して来るようなことが起こったのです。それが、イースターの出来事です。イエス様のよみがえりです。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>4月17日（日）礼拝メッセージ「イエス・キリストの十字架」要旨</title>
		<link>http://feedproxy.google.com/~r/nhckjpnorg/~3/DK7wCiMMXQ8/</link>
		<comments>http://nhck.jpn.org/?p=761#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 17 Apr 2011 08:13:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「イエス・キリストの十字架」（マタイによる福音書27章33節～46節）
「イエス・キリストはすべての罪の呪いから、私たちを贖い出してくださった。」（ガラテヤ書3章13節）
　人間は、血筋や、家柄によって救われるのではありません。人の心がけや、行いによって救われるのでもありません。ただ、私たちを罪の呪いから贖いだすために死んでくださったイエス様を神の子と信じる信仰によってだけ救われるのです。「誰でも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。古いものは過ぎ去って見よすべてが新しくなりました。」(コリント人への第二の手紙5章17節）とパウロは言いました。
　私はですから、本当に思うのですが、そのような血筋とか血統いだとか、先祖の祟りだとか、呪われているとか、あるいは、また、精神的な病だとか、悪い病気だとか、てんかんをもっているとか、そのようなものの何一つない、完全無欠な人というのは、一人もいないと思うのです。何一つ罪の遺伝を、病気の遺伝を、悪い因子を持っていない人なんかいないのです。
　ですから、私たちは、何も恐れることはありません。キリストの血潮は、すべての呪いから私たちをあがないだすことができるのです。そのためにこそ、イエス様はいばらの冠をかぶせられたので鵜s。
　では、十字架の上で流された血潮は何の為だったのでしょうか。
　これこそ、私たちの命を死から、永遠の滅びから贖いだすものであります。こうして、イエス・キリストの流された血潮によって、私たちの罪と呪いと死は、完全に征服され、神との和解がもたらされたのです。
　たとえば、いろいろな不幸があります。仲たがいがあります。妬みがあり、憎しみがあります。不和があります。お互いに愛し合わなければならない者同士の間でまた、憎しみも強くなるのです。夫が妻を愛することができない、妻が夫を敬うことができない。家庭の不和がある。あるいは、浮気があり、姦淫があります。子供たちが病気をしたり、非行に走ったりします。
　いろいろな心配があり、悩みがあり、苦しみがあり、痛みがあり、恐ろしい病気があり、そして最後に死があるのです。さまざまな背信行為や犯罪や、貧乏、差別…数えあげたらきりがありません。人間は、この世界は本当に呪われていると思うのです。
　けれども、私たちが、私たちの身代わりとなって呪われて下さったイエス・キリストをこの心の受け入れることができるならば、私たちは、すべてのの問いから贖いだされるのです。今、そのことを確信しようではありませんか。イエス様は、私たちを永遠の死から救い出すために十字架にかかって下さったのです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「イエス・キリストの十字架」（マタイによる福音書27章33節～46節）</strong></p>
<p>「イエス・キリストはすべての罪の呪いから、私たちを贖い出してくださった。」（ガラテヤ書3章13節）<br />
　人間は、血筋や、家柄によって救われるのではありません。人の心がけや、行いによって救われるのでもありません。ただ、私たちを罪の呪いから贖いだすために死んでくださったイエス様を神の子と信じる信仰によってだけ救われるのです。「誰でも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。古いものは過ぎ去って見よすべてが新しくなりました。」(コリント人への第二の手紙5章17節）とパウロは言いました。<br />
　私はですから、本当に思うのですが、そのような血筋とか血統いだとか、先祖の祟りだとか、呪われているとか、あるいは、また、精神的な病だとか、悪い病気だとか、てんかんをもっているとか、そのようなものの何一つない、完全無欠な人というのは、一人もいないと思うのです。何一つ罪の遺伝を、病気の遺伝を、悪い因子を持っていない人なんかいないのです。<br />
　ですから、私たちは、何も恐れることはありません。キリストの血潮は、すべての呪いから私たちをあがないだすことができるのです。そのためにこそ、イエス様はいばらの冠をかぶせられたので鵜s。<br />
　では、十字架の上で流された血潮は何の為だったのでしょうか。<br />
　これこそ、私たちの命を死から、永遠の滅びから贖いだすものであります。こうして、イエス・キリストの流された血潮によって、私たちの罪と呪いと死は、完全に征服され、神との和解がもたらされたのです。<br />
　たとえば、いろいろな不幸があります。仲たがいがあります。妬みがあり、憎しみがあります。不和があります。お互いに愛し合わなければならない者同士の間でまた、憎しみも強くなるのです。夫が妻を愛することができない、妻が夫を敬うことができない。家庭の不和がある。あるいは、浮気があり、姦淫があります。子供たちが病気をしたり、非行に走ったりします。<br />
　いろいろな心配があり、悩みがあり、苦しみがあり、痛みがあり、恐ろしい病気があり、そして最後に死があるのです。さまざまな背信行為や犯罪や、貧乏、差別…数えあげたらきりがありません。人間は、この世界は本当に呪われていると思うのです。<br />
　けれども、私たちが、私たちの身代わりとなって呪われて下さったイエス・キリストをこの心の受け入れることができるならば、私たちは、すべてのの問いから贖いだされるのです。今、そのことを確信しようではありませんか。イエス様は、私たちを永遠の死から救い出すために十字架にかかって下さったのです。</p>
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		<item>
		<title>4月10日（日）礼拝メッセージ「御子を信じる者」要旨</title>
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		<pubDate>Sun, 10 Apr 2011 08:13:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「御子を信じる者」（ヨハネによる福音書3章31節～36節）
以前、ある新聞に載っていたことですが、東京大学の精神科のお医者さんが、新興宗教の教祖のもとに治療に来る患者さんたちを診断したところ、確かに60～70パーセントは効いているということでした。
　外国の実験でもこういうのがあります。胃潰瘍の患者さんに看護師さんが薬を持ってきて、「この薬は効くか効かないかは、ちょっとわかりませんけれど」とあやふやな態度で、小麦粉を飲ませると、それでも20～25パーセントは、効くのだそうです。信ずるということは、たとえ、こんな怪しげなものでも、これだけの効果を確かに見せてくれるものです。だとすれば、生ける神様の言葉を私たちが、本気で信じるならば、70パーセントどころか、100パーセントの効果を発揮することに間違いありません。
　現代のクリスチャンである私たちが、もし、青白い顔をしていつも首を横に傾けて考え込んで生きているとしたら、大変残念なことです。もう一度、私たちは、イエス・キリストというお方は、天から来られた方であり、証しをなさる全能のお方であって、この（御子を信じる者）は、永遠の命を既にあじわっているのだという喜びと、確信とを取り戻させていただきたいと願うものです。
　確かに、現在は困難な時代であります。慎重を要する社会です。けれども、その中で少なくとも、聖書がはっきりと明確に教え、教会が述べ伝え続けている福音の確実性というものを私たちは、見失ってはならないのです。
　この真理の中に、この永遠の真理の中に、私たち一人、一人の生活を打ち立てて行きたい。これが、私たちの生活、私たちの家庭の岩なる土台であるということを改めて確率したいものです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「御子を信じる者」（ヨハネによる福音書3章31節～36節）</strong></p>
<p>以前、ある新聞に載っていたことですが、東京大学の精神科のお医者さんが、新興宗教の教祖のもとに治療に来る患者さんたちを診断したところ、確かに60～70パーセントは効いているということでした。<br />
　外国の実験でもこういうのがあります。胃潰瘍の患者さんに看護師さんが薬を持ってきて、「この薬は効くか効かないかは、ちょっとわかりませんけれど」とあやふやな態度で、小麦粉を飲ませると、それでも20～25パーセントは、効くのだそうです。信ずるということは、たとえ、こんな怪しげなものでも、これだけの効果を確かに見せてくれるものです。だとすれば、生ける神様の言葉を私たちが、本気で信じるならば、70パーセントどころか、100パーセントの効果を発揮することに間違いありません。<br />
　現代のクリスチャンである私たちが、もし、青白い顔をしていつも首を横に傾けて考え込んで生きているとしたら、大変残念なことです。もう一度、私たちは、イエス・キリストというお方は、天から来られた方であり、証しをなさる全能のお方であって、この（御子を信じる者）は、永遠の命を既にあじわっているのだという喜びと、確信とを取り戻させていただきたいと願うものです。<br />
　確かに、現在は困難な時代であります。慎重を要する社会です。けれども、その中で少なくとも、聖書がはっきりと明確に教え、教会が述べ伝え続けている福音の確実性というものを私たちは、見失ってはならないのです。<br />
　この真理の中に、この永遠の真理の中に、私たち一人、一人の生活を打ち立てて行きたい。これが、私たちの生活、私たちの家庭の岩なる土台であるということを改めて確率したいものです。</p>
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		<item>
		<title>3月27日（日）礼拝メッセージ「永遠のいのち」要旨</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Mar 2011 08:15:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「永遠のいのち」（ヨハネによる福音書3章12節～21節
聖書でいう（永遠の命）とは、いつまでも長生きすること、いつまでも永続する命ということではありません。幸い、現在は、医学も進んできて、平均寿命が80歳～90歳、将来まだどれだけ伸びるかわからないほどに長い命になりましたが、わたしたちは、それで本当に幸せになったと思っているでしょうか。長く生きるだけで、人は、決して幸せというわけではありません。(永遠の命）とは、罪をあがなってくださったイエス・キリストにある命、イエス・キリストとともに歩む生活のことです。
　イギリスの歌手として世界的に有名なクリフ・リチャードは、自分の人生を変えたイエス・キリストについてあるところでこう証ししています。「だいたい世間の人々というのは、私のようなタレントと言われる者たちはお金をたくさん持っており、豪華な家に住み、高級車を乗り回して、毎日楽しんで、喜びをもって暮らし、本当に幸福だと思っているようです。けれども、本当のことを言いますと、私が歌手生活の最高潮にあった8～9年前には、本当に何もない、なんとむなしいこれが、人生かと思ったものでした。私が、イエス・キリストにお会いし、その十字架の犠牲が私の罪の為であったと信じるまでは、私の人生が満ち足りているとは、どうしても言えませんでした。
　しかし、今日、私は、はっきり断言することができます。キリストは、ただで私を鮮やかに変えてくださっただけでなく、その変化は、私の前にすばらしい前進を約束してくださったのです。」
　クリフ・リチャードだけではありません。十字架のキリストを仰ぎ、受け入れるとき、私たちの生涯は、鮮やかに作り変えられるのです。私たちにとっての本当の問題は、周囲に命がないことではありません。周囲に悪がはびこっていることでもありません。自らの中に罪があって、その罪に自分が勝てないでいるということではないでしょうか。
　しかし、幸いなことに、救い主イエス・キリストは十字架の上にあげられて、私の罪に勝利してくださいました。イエス・キリストを信ずる者は、罪に勝利した罪から自由になった生命をイエス・キリストに会ってもつことができるのです。これこそ、キリストにある永遠の命と呼ばれるものです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「永遠のいのち」（ヨハネによる福音書3章12節～21節</strong></p>
<p>聖書でいう（永遠の命）とは、いつまでも長生きすること、いつまでも永続する命ということではありません。幸い、現在は、医学も進んできて、平均寿命が80歳～90歳、将来まだどれだけ伸びるかわからないほどに長い命になりましたが、わたしたちは、それで本当に幸せになったと思っているでしょうか。長く生きるだけで、人は、決して幸せというわけではありません。(永遠の命）とは、罪をあがなってくださったイエス・キリストにある命、イエス・キリストとともに歩む生活のことです。<br />
　イギリスの歌手として世界的に有名なクリフ・リチャードは、自分の人生を変えたイエス・キリストについてあるところでこう証ししています。「だいたい世間の人々というのは、私のようなタレントと言われる者たちはお金をたくさん持っており、豪華な家に住み、高級車を乗り回して、毎日楽しんで、喜びをもって暮らし、本当に幸福だと思っているようです。けれども、本当のことを言いますと、私が歌手生活の最高潮にあった8～9年前には、本当に何もない、なんとむなしいこれが、人生かと思ったものでした。私が、イエス・キリストにお会いし、その十字架の犠牲が私の罪の為であったと信じるまでは、私の人生が満ち足りているとは、どうしても言えませんでした。<br />
　しかし、今日、私は、はっきり断言することができます。キリストは、ただで私を鮮やかに変えてくださっただけでなく、その変化は、私の前にすばらしい前進を約束してくださったのです。」<br />
　クリフ・リチャードだけではありません。十字架のキリストを仰ぎ、受け入れるとき、私たちの生涯は、鮮やかに作り変えられるのです。私たちにとっての本当の問題は、周囲に命がないことではありません。周囲に悪がはびこっていることでもありません。自らの中に罪があって、その罪に自分が勝てないでいるということではないでしょうか。<br />
　しかし、幸いなことに、救い主イエス・キリストは十字架の上にあげられて、私の罪に勝利してくださいました。イエス・キリストを信ずる者は、罪に勝利した罪から自由になった生命をイエス・キリストに会ってもつことができるのです。これこそ、キリストにある永遠の命と呼ばれるものです。</p>
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		<title>3月20日（日）伝道礼拝メッセージ「一粒の麦」要旨</title>
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		<pubDate>Tue, 22 Mar 2011 00:35:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「一粒の麦」（ヨハネによる福音書12章24節～26節）　
　明治10年ごろ、台湾の東海岸に近い花蓮という山地にすんでいたチャンという女性がいました。とても、美しい女性でしたが、男運の悪い人でした。最初に結婚したご主人は、彼が美人を妻にしたという理由でねたまれ、殺されてしまいました。二番目のご主人は、病気で亡くなりました。三番目のご主人は、チャンさんが日本の政府から贈られた立派な、家屋敷、田畑全部を売りとばしてどこかに逃げてしまいました。
　その財産を贈られた理由というのは、当時の日本軍は、天然の要塞を利用して頑固に抵抗を続けていた山地のクユロ族が日本軍に焼き殺されようとしたときにチャンさんが自分の体を張って、各部落のリーダーを説得して回り、無益で、悲惨な結果に終わることがわかっていた抵抗をやめさせたことによるもので、その財産は彼女にとって良い記念であるだけでなく、老後の保障ともなるものでした。その全部の財産を奪われ、裏切られたチャンさんは、絶望して高い崖の上から身投げをしようとしたとき、イギリスのディクソン宣教師にすくされてクリスチャンになりました。彼女は、51歳でしたが、それから彼女は、日本の聖書学院に入学、優秀な成績でそこを卒業しました。学校の方では、彼女の信仰と人柄を高く評価して、是非学校に残り、生徒の指導をしてほしいと希望したのですが、彼女は、自分の部落に使命を感じて郷里に帰っていきました。ところが、当時の日本軍の統治下にあって、天皇陛下に対する忠誠と、神社参拝を強制されていました。けれども、彼女は、日本軍の厳しい弾圧の下でも、伝道を続け、隠れキリシタンのように洞窟に隠れて集会を持ち、あの場所からこの場所へと逃げ回って伝道を続けていました。
　しかし、ついに昭和20年8月戦争は終わり、チャンさんたちは、迫害から解放されて堂々と声高らかに讃美歌を歌うことができるようになりました。しかし、長い迫害時代にチャンさんの肉体は弱り切っていて、終戦の翌年の4月75歳で天に召されました。けれども、チャンさんの長い忍耐と犠牲の生涯を通して、台湾の山間僻地のいたるところに、教会がたち、その数は４００に達したということです。
　かってのチャンさんの古い自我は、断崖から飛び降りようとして死にましたが、イエス・キリストの生命、主の復活の生命の中に生き続け75歳の生涯を全うして使命を終わり、多くの実を結ぶことになったのです。
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			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「一粒の麦」（ヨハネによる福音書12章24節～26節）</strong>　<br />
　明治10年ごろ、台湾の東海岸に近い花蓮という山地にすんでいたチャンという女性がいました。とても、美しい女性でしたが、男運の悪い人でした。最初に結婚したご主人は、彼が美人を妻にしたという理由でねたまれ、殺されてしまいました。二番目のご主人は、病気で亡くなりました。三番目のご主人は、チャンさんが日本の政府から贈られた立派な、家屋敷、田畑全部を売りとばしてどこかに逃げてしまいました。<br />
　その財産を贈られた理由というのは、当時の日本軍は、天然の要塞を利用して頑固に抵抗を続けていた山地のクユロ族が日本軍に焼き殺されようとしたときにチャンさんが自分の体を張って、各部落のリーダーを説得して回り、無益で、悲惨な結果に終わることがわかっていた抵抗をやめさせたことによるもので、その財産は彼女にとって良い記念であるだけでなく、老後の保障ともなるものでした。その全部の財産を奪われ、裏切られたチャンさんは、絶望して高い崖の上から身投げをしようとしたとき、イギリスのディクソン宣教師にすくされてクリスチャンになりました。彼女は、51歳でしたが、それから彼女は、日本の聖書学院に入学、優秀な成績でそこを卒業しました。学校の方では、彼女の信仰と人柄を高く評価して、是非学校に残り、生徒の指導をしてほしいと希望したのですが、彼女は、自分の部落に使命を感じて郷里に帰っていきました。ところが、当時の日本軍の統治下にあって、天皇陛下に対する忠誠と、神社参拝を強制されていました。けれども、彼女は、日本軍の厳しい弾圧の下でも、伝道を続け、隠れキリシタンのように洞窟に隠れて集会を持ち、あの場所からこの場所へと逃げ回って伝道を続けていました。<br />
　しかし、ついに昭和20年8月戦争は終わり、チャンさんたちは、迫害から解放されて堂々と声高らかに讃美歌を歌うことができるようになりました。しかし、長い迫害時代にチャンさんの肉体は弱り切っていて、終戦の翌年の4月75歳で天に召されました。けれども、チャンさんの長い忍耐と犠牲の生涯を通して、台湾の山間僻地のいたるところに、教会がたち、その数は４００に達したということです。<br />
　かってのチャンさんの古い自我は、断崖から飛び降りようとして死にましたが、イエス・キリストの生命、主の復活の生命の中に生き続け75歳の生涯を全うして使命を終わり、多くの実を結ぶことになったのです。</p>
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		<title>3月13日（日）礼拝メッセージ「新しく生まれなければ」</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Mar 2011 00:32:55 +0000</pubDate>
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		<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>

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		<title>3月13日（日）礼拝メッセージ「新しく生まれなければ」要旨</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Mar 2011 00:26:48 +0000</pubDate>
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		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「新しく生まれなければ」(ヨハネによる福音書3章1節～15節）　　
　新生という出来事は、(風はその思いのままに吹く）ように（8節）神様の思いのままに、神様の語泡の主権的な出来事として起こるということです。
　なぜ私は、生まれ変わったのだろうか、なぜあの人は、生まれ変わらなかったのでしょうか。ということを、私たち人間が問うことは、許されないような、専ら神の側の主権的な業として新生は、思いのままに起されます。そして、風が（どこからきてどこへ行くかを知らない。）(8節）ように御霊がいつ、どこから、どのように人の心に入って、どのように生き変わらせ、どうなっていくのかということを、私たちは、知らない。ミステリーです。
　私は、何年、何月、何日、生まれ変わりましたと日記に書きとめることができるようにして、新生されることもあるのですが、実際新生そのものは、私たちの知覚を超えた神秘な出来事なのです。
　しかし、最後に「風は吹いていることもわからない。」ということは、ないわけで、必ず(その音を聞く)寒いと感じる、吹き流しが揺れている、木の葉が揺れる、風車が回るというように結果というものは、風の場合も必ず現れます。霊から生まれた者も、それと同じで、新生そのものがいつ、どこで、どのようにして起こったかはわからなくても、新生した声明の躍動は、必ず現れて実を結ぶはずです。
　私たちは、テレビを見、自動車に乗り、薬屋で「よくききますよ。」とすすめられた薬を買い、医者から注射を打って貰うような生活をしています。しかし、テレビはいかにして映るか、自動車はどのようにして動くのであるか、この薬は、なぜ胃袋にはいりながら、皮膚の傷にきくのであるか、などという詳しい事情を全部理解しているわけではないのです。説明しろと言われても、説明できないかもしれません。しかし、だからと言って、私たちは、テレビを見ない、自動車に乗らない、薬品や手術を否定するというわけではありません。
　そのように、私たちには、いつ、いかにしてというからくりはわからないけれども、御霊によってうまれるというこの新生の事実は、否定することができません。その結果が確かに人間の歴史の中である人を見違えるような別人にし、罪の中に沈んでいった私たちを希望と喜びに満ち溢れた人生に立ち上がらせてきた事実を私たちが見ているからには、確かに霊から生まれる事実はあるのです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「新しく生まれなければ」(ヨハネによる福音書3章1節～15節）</strong>　　<br />
　新生という出来事は、(風はその思いのままに吹く）ように（8節）神様の思いのままに、神様の語泡の主権的な出来事として起こるということです。<br />
　なぜ私は、生まれ変わったのだろうか、なぜあの人は、生まれ変わらなかったのでしょうか。ということを、私たち人間が問うことは、許されないような、専ら神の側の主権的な業として新生は、思いのままに起されます。そして、風が（どこからきてどこへ行くかを知らない。）(8節）ように御霊がいつ、どこから、どのように人の心に入って、どのように生き変わらせ、どうなっていくのかということを、私たちは、知らない。ミステリーです。<br />
　私は、何年、何月、何日、生まれ変わりましたと日記に書きとめることができるようにして、新生されることもあるのですが、実際新生そのものは、私たちの知覚を超えた神秘な出来事なのです。<br />
　しかし、最後に「風は吹いていることもわからない。」ということは、ないわけで、必ず(その音を聞く)寒いと感じる、吹き流しが揺れている、木の葉が揺れる、風車が回るというように結果というものは、風の場合も必ず現れます。霊から生まれた者も、それと同じで、新生そのものがいつ、どこで、どのようにして起こったかはわからなくても、新生した声明の躍動は、必ず現れて実を結ぶはずです。<br />
　私たちは、テレビを見、自動車に乗り、薬屋で「よくききますよ。」とすすめられた薬を買い、医者から注射を打って貰うような生活をしています。しかし、テレビはいかにして映るか、自動車はどのようにして動くのであるか、この薬は、なぜ胃袋にはいりながら、皮膚の傷にきくのであるか、などという詳しい事情を全部理解しているわけではないのです。説明しろと言われても、説明できないかもしれません。しかし、だからと言って、私たちは、テレビを見ない、自動車に乗らない、薬品や手術を否定するというわけではありません。<br />
　そのように、私たちには、いつ、いかにしてというからくりはわからないけれども、御霊によってうまれるというこの新生の事実は、否定することができません。その結果が確かに人間の歴史の中である人を見違えるような別人にし、罪の中に沈んでいった私たちを希望と喜びに満ち溢れた人生に立ち上がらせてきた事実を私たちが見ているからには、確かに霊から生まれる事実はあるのです。</p>
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		<title>3月6日（日）礼拝メッセージ「人のうちにあるもの」</title>
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		<pubDate>Sun, 06 Mar 2011 00:55:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[podPress CategoryCasting]]></category>

		<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>

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		<title>3月6日（日）礼拝メッセージ「人のうちにあるもの」要旨</title>
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		<pubDate>Sat, 05 Mar 2011 01:22:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「人のうちにあるもの」（ヨハネによる福音書2章13節～25節）
　ハドソン・テーラーがある日、貧民街での伝道のためにあばら家に入るますと、痩せ細った４，５人の子供が突っ立っていました。しかも、まだ生まれて間もない赤ん坊が飢えて悲鳴を上げて叫んでおり、そして、母親が横たわっています。実に悲惨な光景でした。ああ、今このポケットにあるお金が小さなお金にくずれていたら500円あげるのだが。と、彼は思いました。
　しかし、慰めの説教を始めました。説教しながら彼の心は、痛みました。そして、説教が終わりますと、では、お祈りしましょうと言って目をつぶって「天の父なる神様」と祈りました。しかし、忽ち彼の良心がうずきました。「お前は、神を侮ろうとするのか。そのお金をポケットに入れたままよくも、神様を天のお父様などと呼べるのか。」と囁く声が胸のうちに聞こえてくるようでした。もう、支離滅裂になりました。
　祈り終わると、ついに彼は、ポケットにありましたあの最後に残っていた1000円札を一枚それを貧乏人に与えて帰ってまいりました。「気の毒な婦人が救われただけでなく、私自身も救われたことがよくわかった。」実に、その時救いを必要としていたのは、やめる女ではなく、神様プラス500円ならやれる。神様プラス300円でもまだやっていける。しかし、神様だけならやっていけないと不信仰であった自分、この自分こそ救われなければならなかったことに気が付いたのです。「この時の、神sまあの恵みの支配と、聖霊の働きへの服従がなかったら、キリスト者としての、私の生活は破船していたかもしれない。いや、実際そうなってしまったに違いない。」と彼は、その日記に書いています。
　不思議なことに、翌日、差出人不明の現金書留が彼宛に届きました。封を切ると中に30000円のお金が入っていたのです。
　テイラーは、非常に犠牲的だった彼の生涯を顧みて「私は、自分で犠牲を払うようなことはしたことがない。」と記しています。これは、おそらく、彼が本当に最後の1000円もなく、500円もなく、しかし、神様おひとりさえあればやっていけるというほどに、神様を信頼することを学んだ時、彼も、また、神様から信用され、キリストご自身の力を頂けたからであると思うのです。
　私たちが、本当に偽りのない心をもって、イエス・キリストに信頼を寄せるとき、イエス・キリストもまた、私たちにすべてのものの源であられるご自身をおかませくださるのであります。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「人のうちにあるもの」（ヨハネによる福音書2章13節～25節）<br />
</strong>　ハドソン・テーラーがある日、貧民街での伝道のためにあばら家に入るますと、痩せ細った４，５人の子供が突っ立っていました。しかも、まだ生まれて間もない赤ん坊が飢えて悲鳴を上げて叫んでおり、そして、母親が横たわっています。実に悲惨な光景でした。ああ、今このポケットにあるお金が小さなお金にくずれていたら500円あげるのだが。と、彼は思いました。<br />
　しかし、慰めの説教を始めました。説教しながら彼の心は、痛みました。そして、説教が終わりますと、では、お祈りしましょうと言って目をつぶって「天の父なる神様」と祈りました。しかし、忽ち彼の良心がうずきました。「お前は、神を侮ろうとするのか。そのお金をポケットに入れたままよくも、神様を天のお父様などと呼べるのか。」と囁く声が胸のうちに聞こえてくるようでした。もう、支離滅裂になりました。<br />
　祈り終わると、ついに彼は、ポケットにありましたあの最後に残っていた1000円札を一枚それを貧乏人に与えて帰ってまいりました。「気の毒な婦人が救われただけでなく、私自身も救われたことがよくわかった。」実に、その時救いを必要としていたのは、やめる女ではなく、神様プラス500円ならやれる。神様プラス300円でもまだやっていける。しかし、神様だけならやっていけないと不信仰であった自分、この自分こそ救われなければならなかったことに気が付いたのです。「この時の、神sまあの恵みの支配と、聖霊の働きへの服従がなかったら、キリスト者としての、私の生活は破船していたかもしれない。いや、実際そうなってしまったに違いない。」と彼は、その日記に書いています。<br />
　不思議なことに、翌日、差出人不明の現金書留が彼宛に届きました。封を切ると中に30000円のお金が入っていたのです。<br />
　テイラーは、非常に犠牲的だった彼の生涯を顧みて「私は、自分で犠牲を払うようなことはしたことがない。」と記しています。これは、おそらく、彼が本当に最後の1000円もなく、500円もなく、しかし、神様おひとりさえあればやっていけるというほどに、神様を信頼することを学んだ時、彼も、また、神様から信用され、キリストご自身の力を頂けたからであると思うのです。<br />
　私たちが、本当に偽りのない心をもって、イエス・キリストに信頼を寄せるとき、イエス・キリストもまた、私たちにすべてのものの源であられるご自身をおかませくださるのであります。</p>
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		<title>2月27日（日）主日礼拝メッセージ「カナの婚礼の奇蹟」</title>
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		<pubDate>Fri, 04 Mar 2011 03:08:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
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		<itunes:author>ニューホープチャーチ掛川</itunes:author>
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		<title>2月27日（日）主日礼拝メッセージ「カナの婚礼の奇蹟」要旨</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Mar 2011 12:53:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>masa3ky</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「カナの婚礼の奇蹟」（ヨハネによる福音書2章1節12節）
　私たちが信仰生活において、すばらしい恵みの世界を体験しようとするならば、必要なのは、主のお言葉に対する服従です。服従がないとダメなのです。理屈では分かっています。お祈りすつことは、大事です。イエス様に従うこと、「ああ、それもよくわかっています。」と誰でも言います。
　私たちが、今なおざりにしている問題やろうやろう従おう従おうと思いながら、1年も2年も延ばしている問題があるかもしれません。しかし、そのことにすぐ従ってみましょう。そこに、奇蹟が起きてくるのです。
　案外、私たちが退屈なあるいは、つまらない信仰生活を送っている理由は、細かいところに神様が光を当ててくださっているのに、従えば、今従える問題なのに、延ばし、延ばししているところに原因があるのかもしれません。
　今朝、主は末広がりの恩寵、恵みを私たちに与えてくだ」さると約束なさっています。後になるほど良き、恵みを与えてくださるのです。この主がいらっしゃるのですから、また、主が語って下さるお言葉に「アーメン」と言って従いましょう。
　みなさん、祝福の道は、従うことです。従うということは、主を愛することに通じるのです。そして、そこに末広がりの恵みがあり、逆転の祝福があるのです。
「水がめに水を満たしなさい。」と言われたとき、「これは、葡萄酒と関係ないみたいですね。」「イエス様これは、水ですよ。」と文句を言わず、「アーメン」と従った時に、奇蹟が起こりました。
　あの、シモン・ペテロが一晩中労したけれど、何一つ取れませんでした。しかし、「深みに漕ぎ出して。網を下して魚をとりなさい。」と言われたイエス様のお言葉に対して、「お言葉通り、網を下してみましょう。」といったのです。その時、奇蹟がおこりました。特別な神様からのお言葉がかけられるときもあるでしょうが、大切なのは毎日聖書を読むときに、礼拝や祈り会、聖書の学び会、その他のところで、細かい御声がかけられたときに「アーメン」と言ってすぐ従ってみましょう。そこに、奇蹟がおこり、祝福が始まるのです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「カナの婚礼の奇蹟」（ヨハネによる福音書2章1節12節</strong>）<br />
　私たちが信仰生活において、すばらしい恵みの世界を体験しようとするならば、必要なのは、主のお言葉に対する服従です。服従がないとダメなのです。理屈では分かっています。お祈りすつことは、大事です。イエス様に従うこと、「ああ、それもよくわかっています。」と誰でも言います。<br />
　私たちが、今なおざりにしている問題やろうやろう従おう従おうと思いながら、1年も2年も延ばしている問題があるかもしれません。しかし、そのことにすぐ従ってみましょう。そこに、奇蹟が起きてくるのです。<br />
　案外、私たちが退屈なあるいは、つまらない信仰生活を送っている理由は、細かいところに神様が光を当ててくださっているのに、従えば、今従える問題なのに、延ばし、延ばししているところに原因があるのかもしれません。<br />
　今朝、主は末広がりの恩寵、恵みを私たちに与えてくだ」さると約束なさっています。後になるほど良き、恵みを与えてくださるのです。この主がいらっしゃるのですから、また、主が語って下さるお言葉に「アーメン」と言って従いましょう。<br />
　みなさん、祝福の道は、従うことです。従うということは、主を愛することに通じるのです。そして、そこに末広がりの恵みがあり、逆転の祝福があるのです。<br />
「水がめに水を満たしなさい。」と言われたとき、「これは、葡萄酒と関係ないみたいですね。」「イエス様これは、水ですよ。」と文句を言わず、「アーメン」と従った時に、奇蹟が起こりました。<br />
　あの、シモン・ペテロが一晩中労したけれど、何一つ取れませんでした。しかし、「深みに漕ぎ出して。網を下して魚をとりなさい。」と言われたイエス様のお言葉に対して、「お言葉通り、網を下してみましょう。」といったのです。その時、奇蹟がおこりました。特別な神様からのお言葉がかけられるときもあるでしょうが、大切なのは毎日聖書を読むときに、礼拝や祈り会、聖書の学び会、その他のところで、細かい御声がかけられたときに「アーメン」と言ってすぐ従ってみましょう。そこに、奇蹟がおこり、祝福が始まるのです。</p>
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		<title>2月20日（日）伝道礼拝メッセージ「主に身を避ける者」</title>
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		<pubDate>Mon, 28 Feb 2011 09:04:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[podPress CategoryCasting]]></category>

		<category><![CDATA[礼拝メッセージ]]></category>

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		<title>2月20日（日）伝道礼拝メッセージ「主に身を避ける者」要旨</title>
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		<pubDate>Wed, 23 Feb 2011 10:32:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「主に身を避ける者」(詩篇34篇1節～22節）
　聖書は、苦しみの時に主に叫ぶと、主は、その苦悩から救われると言っています。イエス・キリストは私たちの救い主だから、自動的にいつも私たちを救ってくださるお方でしょうか。助けて下さるかたでしょうか。その通りです。
　けれども、イエス様を信じているクリスチャンでも問題にぶつかって苦しみ、悩むことはあるのです。いずれにしても必要なことは、私たちが今の自分の状態をイエス様に具体的に申し上げて叫ぶということです。
　「苦しみの時に主に向かって叫ぶ」のです。主に向かって叫び求めていくのです。そうすれば、イエス様は、私たちを助けてくださって必ず豊かな祝福を与えてくださいます。小さな子供が、何かを求めて泣きわめいていることがよくあります。
　自分の恰好などおかないなしにただひたすら、自分の要求を親に求めて泣き叫んでいます。すると、親はあまりの熱心な求めに対して、つい答えてしまうようです。
　それと同じように、私たちも切実な求めを神様に向かって叫びたいものです。イエス様が町を通られたとき、道端に座っていた盲人が「主よ、私たちを憐れんでください。」叫びたいものです。イエス様が町を通られたとき、道端に座っていた盲人が、「主よ、私たちを憐れんでください。」と助けを呼び求めました。すると「イエスは、かわいそうに思って彼らの目に触られた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイによる福音書20章34節）とあります。
　私たちが、イエス様の名を呼び求めるとき、私たちに対する神様の祝福の第一歩が始まるのだということを覚えましょう。
　パウロという伝道者は言いました。「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなた方の信仰は、むなしく、あなた方は、今もなお、自分の罪の名観いいるのです。……しかし、今や、キリストは、眠ったものの初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント人への第一の手紙15章17節、20節）
　このイエス様のよみがえりの事実によって、私たちの心の中に大きな希望の光がもたらされるようになったことをご一緒に感謝したいものです。
　(詩篇３４篇７節）
「若い獅子も、乏しくなって飢える。しかし、主をたずね求める者は、良いものに何一つかけることはない。」
神様に求める者が、乏しいことは、決してないのです。それが聖書の約束です。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「主に身を避ける者」(詩篇34篇1節～22節</strong>）<br />
　聖書は、苦しみの時に主に叫ぶと、主は、その苦悩から救われると言っています。イエス・キリストは私たちの救い主だから、自動的にいつも私たちを救ってくださるお方でしょうか。助けて下さるかたでしょうか。その通りです。<br />
　けれども、イエス様を信じているクリスチャンでも問題にぶつかって苦しみ、悩むことはあるのです。いずれにしても必要なことは、私たちが今の自分の状態をイエス様に具体的に申し上げて叫ぶということです。<br />
　「苦しみの時に主に向かって叫ぶ」のです。主に向かって叫び求めていくのです。そうすれば、イエス様は、私たちを助けてくださって必ず豊かな祝福を与えてくださいます。小さな子供が、何かを求めて泣きわめいていることがよくあります。<br />
　自分の恰好などおかないなしにただひたすら、自分の要求を親に求めて泣き叫んでいます。すると、親はあまりの熱心な求めに対して、つい答えてしまうようです。<br />
　それと同じように、私たちも切実な求めを神様に向かって叫びたいものです。イエス様が町を通られたとき、道端に座っていた盲人が「主よ、私たちを憐れんでください。」叫びたいものです。イエス様が町を通られたとき、道端に座っていた盲人が、「主よ、私たちを憐れんでください。」と助けを呼び求めました。すると「イエスは、かわいそうに思って彼らの目に触られた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」(マタイによる福音書20章34節）とあります。<br />
　私たちが、イエス様の名を呼び求めるとき、私たちに対する神様の祝福の第一歩が始まるのだということを覚えましょう。<br />
　パウロという伝道者は言いました。「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなた方の信仰は、むなしく、あなた方は、今もなお、自分の罪の名観いいるのです。……しかし、今や、キリストは、眠ったものの初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント人への第一の手紙15章17節、20節）<br />
　このイエス様のよみがえりの事実によって、私たちの心の中に大きな希望の光がもたらされるようになったことをご一緒に感謝したいものです。<br />
　(詩篇３４篇７節）<br />
「若い獅子も、乏しくなって飢える。しかし、主をたずね求める者は、良いものに何一つかけることはない。」<br />
神様に求める者が、乏しいことは、決してないのです。それが聖書の約束です。</p>
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		<title>2月13日（日）礼拝メッセージ「天が開けて」要旨</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Feb 2011 06:37:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「天が開けて」（ヨハネによる福音書1章50節～51節）　
ペテロは、その第一の手紙2章11節で「あなた方は、この世では旅人である、寄留者である。」と
言っています。ですから、（12節）「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。」と勧めています。「私たちの国籍は天にあります。」（ピリピ人への手紙3章20節）とパウロは言いました。私たちは、もう既に天国に属するものです。しかし、同時にこの肉体は、まだ地上に寄留しているのです。旧約時代のヤコブ同様石を枕に旅の一夜を過ごしているのです。
　使徒パウロは肉体のとげにさいなまれて、何度も何度もこの試みを過ぎ去らせてくださいと祈って聞き届けられないときに主の御言葉を新しく聞いたのです。コリント人への第二の手紙12章9節～10節ここでパウロは「私が弱いときにこそ私は強いからです。」という新しい目を開かれたのです。
　信仰の目とは、こういうものです。決して理想的なおあつらえ向きの状況の中で「感謝です。感謝です。」と言っているときのそのような目ではなくて、石を枕にした孤独と苦しい困難の中で、「w田氏は知らなかったけれども、神様はここにいてくださった。これはなんと恐れ多いことだろう。ここは、実に天の門だということにヤコブのように目覚める目であります。およそ「信仰とは、望んでる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。信仰とは、望むことのできないようなときに臨んでみるのです。
　信仰とは、見えないと思われる暗黒の中で、新しい世界を見ることができる私たちの目であります。(50～51節）「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た。とわたした言ったのであたなは信じるのですか。あなたは、それよりも更に大きなことを見ることになります。そして、言われた。『まことに、まことにあなた方に告げます。天が開けて、神の御使いたちが人のこの上をのぼり、下りするのをあなた方は、今に見ます。』」
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「天が開けて」（ヨハネによる福音書1章50節～51節）</strong>　<br />
ペテロは、その第一の手紙2章11節で「あなた方は、この世では旅人である、寄留者である。」と<br />
言っています。ですから、（12節）「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。」と勧めています。「私たちの国籍は天にあります。」（ピリピ人への手紙3章20節）とパウロは言いました。私たちは、もう既に天国に属するものです。しかし、同時にこの肉体は、まだ地上に寄留しているのです。旧約時代のヤコブ同様石を枕に旅の一夜を過ごしているのです。<br />
　使徒パウロは肉体のとげにさいなまれて、何度も何度もこの試みを過ぎ去らせてくださいと祈って聞き届けられないときに主の御言葉を新しく聞いたのです。コリント人への第二の手紙12章9節～10節ここでパウロは「私が弱いときにこそ私は強いからです。」という新しい目を開かれたのです。<br />
　信仰の目とは、こういうものです。決して理想的なおあつらえ向きの状況の中で「感謝です。感謝です。」と言っているときのそのような目ではなくて、石を枕にした孤独と苦しい困難の中で、「w田氏は知らなかったけれども、神様はここにいてくださった。これはなんと恐れ多いことだろう。ここは、実に天の門だということにヤコブのように目覚める目であります。およそ「信仰とは、望んでる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。信仰とは、望むことのできないようなときに臨んでみるのです。<br />
　信仰とは、見えないと思われる暗黒の中で、新しい世界を見ることができる私たちの目であります。(50～51節）「イエスは答えて言われた。『あなたがいちじくの木の下にいるのを見た。とわたした言ったのであたなは信じるのですか。あなたは、それよりも更に大きなことを見ることになります。そして、言われた。『まことに、まことにあなた方に告げます。天が開けて、神の御使いたちが人のこの上をのぼり、下りするのをあなた方は、今に見ます。』」</p>
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		<item>
		<title>2月6日（日）礼拝メッセージ「私に従ってきなさい。」要旨</title>
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		<comments>http://nhck.jpn.org/?p=717#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 06 Feb 2011 06:37:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「私に従ってきなさい。」（ヨハネによる福音書1章43節～51節）
　有名なオーガスチヌスは、長い間聖書を読んではいましたが、どうしても信ずることができませんでした。
　彼は、その結果親不孝の限りをつくし、放蕩三昧の生活をしたり、当時流行していたマニ教という宗教によって不安をまぎらわせようとしたりしていましたが、どうしても心は満たされずにやはり、聖書を信じたくてたまらないという求道の日々を送っていました。
　彼はその著書「告白」の中に書いています。「私は、いかにしてあるかは知らぬが、とあるイチジクの木の下に身を投げて涙のあふれ出るに委ねていた……それから私は、同じ言葉ではなかったが、しかもこういう意味のことを数多く訴えた『主よいつまでなのですか、主よいつまでなのですか。あなたは、最後にお怒りになるのですか。私たちの古い不義をどうぞ、記憶しないでください。と。……その時、みよ、隣の家から男の子か、女の子かはしらないが子供の声が聞こえてきた。そして、歌うように『とりて読め、とりて読め』と何度も繰り返していたのである。彼は、これこそ神kの御手だと思って聖書をとって読んだのがローマ人への手紙13章13節～14節の御言葉でした。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みの生活ではなく、昼間らしい正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストをきなさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」オーガスチヌスはこの御言葉を読み、涙を流して悔い改め、それからあとは、鮮やかに見違えるような喜びの生涯にかえられていったのです。
　オーガスチヌスもナタナエルも同じようにイチジクの木の下でイエス様に出会いました。しかし、いちじくの木の下でなければ主にお会いすることはできないというわけでもなく、また、イチジクの木の下にいさえすれば、イエス様にお会いできるというわけではありません。彼らは、イチジクの木の下で祈っていたのです。祈りこそ主にお会いする前提であり、また、祈ることなしに主イエス様に出会うことは、できないのです。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「私に従ってきなさい。」（ヨハネによる福音書1章43節～51節）<br />
</strong>　有名なオーガスチヌスは、長い間聖書を読んではいましたが、どうしても信ずることができませんでした。<br />
　彼は、その結果親不孝の限りをつくし、放蕩三昧の生活をしたり、当時流行していたマニ教という宗教によって不安をまぎらわせようとしたりしていましたが、どうしても心は満たされずにやはり、聖書を信じたくてたまらないという求道の日々を送っていました。<br />
　彼はその著書「告白」の中に書いています。「私は、いかにしてあるかは知らぬが、とあるイチジクの木の下に身を投げて涙のあふれ出るに委ねていた……それから私は、同じ言葉ではなかったが、しかもこういう意味のことを数多く訴えた『主よいつまでなのですか、主よいつまでなのですか。あなたは、最後にお怒りになるのですか。私たちの古い不義をどうぞ、記憶しないでください。と。……その時、みよ、隣の家から男の子か、女の子かはしらないが子供の声が聞こえてきた。そして、歌うように『とりて読め、とりて読め』と何度も繰り返していたのである。彼は、これこそ神kの御手だと思って聖書をとって読んだのがローマ人への手紙13章13節～14節の御言葉でした。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みの生活ではなく、昼間らしい正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストをきなさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」オーガスチヌスはこの御言葉を読み、涙を流して悔い改め、それからあとは、鮮やかに見違えるような喜びの生涯にかえられていったのです。<br />
　オーガスチヌスもナタナエルも同じようにイチジクの木の下でイエス様に出会いました。しかし、いちじくの木の下でなければ主にお会いすることはできないというわけでもなく、また、イチジクの木の下にいさえすれば、イエス様にお会いできるというわけではありません。彼らは、イチジクの木の下で祈っていたのです。祈りこそ主にお会いする前提であり、また、祈ることなしに主イエス様に出会うことは、できないのです。</p>
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		<item>
		<title>1月30日（日）礼拝メッセージ「主キリストとの出会い」要旨</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Jan 2011 05:44:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[礼拝メッセージ要旨]]></category>

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		<description><![CDATA[「主キリストとの出会い」（ヨハネ福音書1章40章～42章）
　ペテロぐらい万事おっちょこちょいで、早合点で調子のいいことばかり言うけれども、いつでもひっくり返っている男は、いませんでした。「ガリラヤ湖のように激しく移り変わる男ペテロ」とも言われていた人ですが本当に十二弟子の中で一番あてにならない、一番お粗末な、一番早とちりの男それがペテロだったのです。
　しかし、イエス様は、このシモンに対して(42節）「あなたをケパ（すなわちペテロ）と呼ぶことにします。」ユダヤの言葉でケパ、ギリシャ語でペテロというのですが、これは「岩、巌、大盤石」を表します。ですから、「あなたをケパ（すなわちペテロ）と呼ぶ事にする」とは、「あなたは本当に不動の確固たる大盤石の男だ」ということです。
　しかし、アンデレは兄弟ですからよく知っていました。これをきいて吹き出したくなる彼ぐらいお粗末な男はありません。彼ぐらい気まぐれな男はいません。彼ぐらい、早合点、早とちりの男はありません。ペテロなんて、ケパなどそんな名前は一番ふさわしくない男です。しかし、このような絶望的なダメ男であっても、イエス・キリストとのあなたしい関係が始まったときに、彼は全く新しく、すっかり変わった人生に入れられたということを意味しています。
　潜在能力ではありません。神様とのイエス・キリストとの新しい関係が彼を思いもよらない新しい人に変えることができたのです。名前が人を変えるのではありません。神様とキリストが人を変えるのです。私たちには、不可能だ、私には無理だと思われたそのような人生の大転換を神様とキリストが可能にしてくださって新しい名を与えてくださるのです。
「彼に信頼するものは、失望させられることがない。」と聖書は言っています。(ローマ人への手紙10章11節）イエス・キリストを信ずるならば、いつも人影に隠れて二軍選手に配置されていたようなアンデレでも、偉大な働きをすることができるのです。ガリラヤ湖の波風よりも激しい移り気なシモンも大盤石のケパ(ペテロ）にしていただけるのです。
　「イエス・キリストを信ずる者は、絶対に失望させられることはありません。」（4節）「私たちは、メシヤ（すなわちキリスト）に会った」このように、今、出会ったイエス・キリストとの新しい関係から、私たちの人生はすばらしく変えられていくのです。
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			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>「主キリストとの出会い」（ヨハネ福音書1章40章～42章）<br />
</strong>　ペテロぐらい万事おっちょこちょいで、早合点で調子のいいことばかり言うけれども、いつでもひっくり返っている男は、いませんでした。「ガリラヤ湖のように激しく移り変わる男ペテロ」とも言われていた人ですが本当に十二弟子の中で一番あてにならない、一番お粗末な、一番早とちりの男それがペテロだったのです。<br />
　しかし、イエス様は、このシモンに対して(42節）「あなたをケパ（すなわちペテロ）と呼ぶことにします。」ユダヤの言葉でケパ、ギリシャ語でペテロというのですが、これは「岩、巌、大盤石」を表します。ですから、「あなたをケパ（すなわちペテロ）と呼ぶ事にする」とは、「あなたは本当に不動の確固たる大盤石の男だ」ということです。<br />
　しかし、アンデレは兄弟ですからよく知っていました。これをきいて吹き出したくなる彼ぐらいお粗末な男はありません。彼ぐらい気まぐれな男はいません。彼ぐらい、早合点、早とちりの男はありません。ペテロなんて、ケパなどそんな名前は一番ふさわしくない男です。しかし、このような絶望的なダメ男であっても、イエス・キリストとのあなたしい関係が始まったときに、彼は全く新しく、すっかり変わった人生に入れられたということを意味しています。<br />
　潜在能力ではありません。神様とのイエス・キリストとの新しい関係が彼を思いもよらない新しい人に変えることができたのです。名前が人を変えるのではありません。神様とキリストが人を変えるのです。私たちには、不可能だ、私には無理だと思われたそのような人生の大転換を神様とキリストが可能にしてくださって新しい名を与えてくださるのです。<br />
「彼に信頼するものは、失望させられることがない。」と聖書は言っています。(ローマ人への手紙10章11節）イエス・キリストを信ずるならば、いつも人影に隠れて二軍選手に配置されていたようなアンデレでも、偉大な働きをすることができるのです。ガリラヤ湖の波風よりも激しい移り気なシモンも大盤石のケパ(ペテロ）にしていただけるのです。<br />
　「イエス・キリストを信ずる者は、絶対に失望させられることはありません。」（4節）「私たちは、メシヤ（すなわちキリスト）に会った」このように、今、出会ったイエス・キリストとの新しい関係から、私たちの人生はすばらしく変えられていくのです。</p>
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	<media:credit role="author">ニューホープチャーチ掛川</media:credit><media:rating>nonadult</media:rating><media:description type="plain">ニューホープチャーチ掛川　礼拝メッセージ</media:description></channel>
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