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    <title>はじめてのDIY</title>
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    <description>社会学者毛利嘉孝東京藝大助教授が切り込むコラム。</description>
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    <title>はじめてのDiY震災</title>
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    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/fcf1c/100252395/226188_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">私たちは地球的時間を前にしてどのように「思想」を立て直すことができるのか。<br />３月11日の震災以降</font></p><p><font size="3" face="Arial">　３月11日に東北沿岸部を襲った東北地方太平洋沖地震の余震はいまだに続いている。これは、単に物理的な自然災害が続いているというだけではない。激震は、人々の思考や思想の中でまだ収まらずに続いている。日本の思想を考える上において、2011年３月11日という日付は、1945年８月６日や８月９日、そしてそれに続く８月15日と同じくらい重要な意味を持ち続けるだろう。被災した人たちが一刻も早く日常生活に戻ることを復帰しつつ、私たちはしばらく喪に服すことになるだろう。<br />　<br />　けれども、この「喪に服す」作業が長くなることはすでに確実だ。10年かもしれないし100年かもしれない。被害はあまりにも甚大であり、人間はあまりにも脆い。とりわけ被災地の状況は依然絶望的だ。さらに福島原発から広がる放射能の影響がどの程度のものなのか、私たちには計る術はない。政府や東京電力は動揺を鎮めようとするだろうが、結局は私たちの不安は収まることはないだろう。私たちは目に見えない放射能に脅えながら、共存する道を選ばざるをえないのだ。もちろんいやいやながら。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　私のまわりでも原発の影響を憂慮して、東京から脱出をしている人が少なくない。子供や妊婦など家族だけ移動させるという例もある。中長期にはこの傾向はさらに高まるだろう。個人的には，今は自分が逃げるのではなくしばらくは福島をはじめ被災地の人々の救助に集中すべきだと思う。けれども、そうした短期的な感想は別に、おそらく私自身は、結局東京に留まり続けることになるだろう。積極的な主張や決意があるわけではないが、特に東京以外で何かできるとはとても考えられないからである。楽観的といえば楽観的だが、要するに実際のところ判断ができるだけの十分な材料がないのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　確実なのは、いずれにしても生き残るためには私たちの行動の枠組みをすべて変えざるをえないことだ。現状の被害を考えれば、これまでの経済や政治の仕組みをそのままにして小手先の対応だけで復興できるとは思えない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　ここで緊急に求められているのは、価値観の決定的な転換である。私たちは，結局は自然には勝てないのだということを認めなければならない。地震と津波、そして原子力は、それぞれ全く異なった現象であるが、これらが暴走した時にそれを制御する能力を私たちは残念ながら持ち合わせていないのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　より便利に、より効率的に、より快適に、という進歩主義的で楽観的な思考が、テクノロジーによる自然の支配を促進してきた。利益優先を原理とする資本主義経済がそれを支えた。けれども、自然は決してテクノロジーに屈することはなかった。さらにやっかいなことに、私たちの手の中にあったはずのテクノロジーまでが、すでに私たちの制御能力を遥かに越えてしまっていたのだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　原子力の問題で、いっそう深刻なのは、その影響が私たちの世代に留まらないことである。それは、空気や海、土壌の汚染という形で、あるいは人間や動物の食物連鎖や遺伝子という形ですう世代に渡って影響を及ぼすと言われている。その影響がどのようなものかは、今現在ではわからない。それは、作り出した私たち自身が責任を持つことができない途方もない長い、何万年にも及ぶ地球史的とも呼ぶべき時間を孕んでいるものなのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　こうした地球史的な時間を持ったテクノロジーを、たかだか100年を切る程度の生しか受けていない人間が用いるのは、ひょっとしたら傲慢な営為だったのではないだろうか。私たちは自然に対しても、テクノロジーに対しても、自らの能力をわきまえた倫理を持つべきではなかったか。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　これまでこの連載ではDiY文化を紹介し、語ってきた。もちろんDiY文化は、自分たちの身の回りのことから思考し、行動することで、大きな資本やテクノロジーの論理とは違ったオルタナティヴな生活様式を目指している、という意味では、こうした非常事態にも耐えうるような一つの規範を示そうとしたものだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　けれども、311を契機にこうした指向すらも今では牧歌的に感じられるのも否定できない。今模索しなければいけないのは、これまでの生活の基盤の徹底的な見直しであり、自然やテクノロジー、人間の死や生、政治や経済を地球史的な視点で考えられるような強靭な思考のあり方である。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　「喪に服す」というのはそうした作業である。震災によって失われた人々の生活に思いを馳せること。もちろん、これ自体途方もない作業だ。そもそも何万年に及ぶ人類の歴史の中では死んでしまった人の数の方が、今生きている人の数よりもはるかに多いのだから、生きていることは例外的なことなのだ。生きることは、そうした特権を行使することである。それは、途切れそうになりながらも、細く続いている人類の歴史を過去から未来へと届けることにほかならない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　もちろん必要以上に深刻になる必要はないのかもしれない。けれども、何かがはっきりとカチッと音を立てて変わってしまったことは、確認しておくべきだろう。これからは、一人一人の思考が、行動が、問われる。状況は厳しい。<br /></font></p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/fcf1c/100252395/226188_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">私たちは地球的時間を前にしてどのように「思想」を立て直すことができるのか。<br />３月11日の震災以降</font></p><p><font size="3" face="Arial">　３月11日に東北沿岸部を襲った東北地方太平洋沖地震の余震はいまだに続いている。これは、単に物理的な自然災害が続いているというだけではない。激震は、人々の思考や思想の中でまだ収まらずに続いている。日本の思想を考える上において、2011年３月11日という日付は、1945年８月６日や８月９日、そしてそれに続く８月15日と同じくらい重要な意味を持ち続けるだろう。被災した人たちが一刻も早く日常生活に戻ることを復帰しつつ、私たちはしばらく喪に服すことになるだろう。<br />　<br />　けれども、この「喪に服す」作業が長くなることはすでに確実だ。10年かもしれないし100年かもしれない。被害はあまりにも甚大であり、人間はあまりにも脆い。とりわけ被災地の状況は依然絶望的だ。さらに福島原発から広がる放射能の影響がどの程度のものなのか、私たちには計る術はない。政府や東京電力は動揺を鎮めようとするだろうが、結局は私たちの不安は収まることはないだろう。私たちは目に見えない放射能に脅えながら、共存する道を選ばざるをえないのだ。もちろんいやいやながら。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　私のまわりでも原発の影響を憂慮して、東京から脱出をしている人が少なくない。子供や妊婦など家族だけ移動させるという例もある。中長期にはこの傾向はさらに高まるだろう。個人的には，今は自分が逃げるのではなくしばらくは福島をはじめ被災地の人々の救助に集中すべきだと思う。けれども、そうした短期的な感想は別に、おそらく私自身は、結局東京に留まり続けることになるだろう。積極的な主張や決意があるわけではないが、特に東京以外で何かできるとはとても考えられないからである。楽観的といえば楽観的だが、要するに実際のところ判断ができるだけの十分な材料がないのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　確実なのは、いずれにしても生き残るためには私たちの行動の枠組みをすべて変えざるをえないことだ。現状の被害を考えれば、これまでの経済や政治の仕組みをそのままにして小手先の対応だけで復興できるとは思えない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　ここで緊急に求められているのは、価値観の決定的な転換である。私たちは，結局は自然には勝てないのだということを認めなければならない。地震と津波、そして原子力は、それぞれ全く異なった現象であるが、これらが暴走した時にそれを制御する能力を私たちは残念ながら持ち合わせていないのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　より便利に、より効率的に、より快適に、という進歩主義的で楽観的な思考が、テクノロジーによる自然の支配を促進してきた。利益優先を原理とする資本主義経済がそれを支えた。けれども、自然は決してテクノロジーに屈することはなかった。さらにやっかいなことに、私たちの手の中にあったはずのテクノロジーまでが、すでに私たちの制御能力を遥かに越えてしまっていたのだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　原子力の問題で、いっそう深刻なのは、その影響が私たちの世代に留まらないことである。それは、空気や海、土壌の汚染という形で、あるいは人間や動物の食物連鎖や遺伝子という形ですう世代に渡って影響を及ぼすと言われている。その影響がどのようなものかは、今現在ではわからない。それは、作り出した私たち自身が責任を持つことができない途方もない長い、何万年にも及ぶ地球史的とも呼ぶべき時間を孕んでいるものなのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　こうした地球史的な時間を持ったテクノロジーを、たかだか100年を切る程度の生しか受けていない人間が用いるのは、ひょっとしたら傲慢な営為だったのではないだろうか。私たちは自然に対しても、テクノロジーに対しても、自らの能力をわきまえた倫理を持つべきではなかったか。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　これまでこの連載ではDiY文化を紹介し、語ってきた。もちろんDiY文化は、自分たちの身の回りのことから思考し、行動することで、大きな資本やテクノロジーの論理とは違ったオルタナティヴな生活様式を目指している、という意味では、こうした非常事態にも耐えうるような一つの規範を示そうとしたものだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　けれども、311を契機にこうした指向すらも今では牧歌的に感じられるのも否定できない。今模索しなければいけないのは、これまでの生活の基盤の徹底的な見直しであり、自然やテクノロジー、人間の死や生、政治や経済を地球史的な視点で考えられるような強靭な思考のあり方である。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　「喪に服す」というのはそうした作業である。震災によって失われた人々の生活に思いを馳せること。もちろん、これ自体途方もない作業だ。そもそも何万年に及ぶ人類の歴史の中では死んでしまった人の数の方が、今生きている人の数よりもはるかに多いのだから、生きていることは例外的なことなのだ。生きることは、そうした特権を行使することである。それは、途切れそうになりながらも、細く続いている人類の歴史を過去から未来へと届けることにほかならない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　もちろん必要以上に深刻になる必要はないのかもしれない。けれども、何かがはっきりとカチッと音を立てて変わってしまったことは、確認しておくべきだろう。これからは、一人一人の思考が、行動が、問われる。状況は厳しい。<br /></font></p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/VvI8OJ9FLqs" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
    <dc:date>2011-04-04T16:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20110314001.html">
    <title>クリエイティヴ・ファンタジスタ＠ＶＡＣＡＮＴとメディアアートの未来</title>
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    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/eb523/100252395/224827_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">　メディアアート界のトリックスター、クリエイティヴクラスターの岡田智博が企画した「クリエイティヴ・ファンタジスタ」（会場：原宿VACANT、会期：2011年2月5日～20日）に行ってきた。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　会期は、ちょうど文化庁メディア芸術祭が国立新美術館で開催されていた時期とほぼ重なっている。この時期にあえてインデペンデントな企画をぶつけ、オルタナティヴなメディアアートのあり方を模索するその姿勢と情熱は、なによりそれだけでも賞賛に値する。</font></p><p><font size="3" face="Arial">メディアアートの変容を近年の「ソーシャルメディア」の隆盛に照らし合わせ、行政や産業主導ではない、市民やユーザー主導の、別のメディアのあり方へのアプローチを試みていたのも興味深い。前回の本コラムでも紹介した３Ｄプリンタなど新しいメディアテクノロジーが、新たなコミュニケーションの可能性を切り開いていることを示す展覧会だったと言えるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、その展示を見ながらあらためて考えさせられたことは、そもそもメディアアートとは何か、それは「芸術」として自律しているのか、ということだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">もちろんこれは、アニメやマンガなどサブカルチャーやプロダクトを含む文化庁メディア芸術祭にも関わる問題である。けれども、文化庁メディア芸術祭の方では、これに対するすでに回答は出されている。そこでいう「メディア芸術」は、古典的な「芸術」とは異なった、よりはっきりと商業的なエンターテインメントの領域として設定されている。むしろ、「クリエイティヴ・ファンタジスタ」の方が、展示の形式として伝統的な芸術に沿っているように見えるためにより深刻な問いに思えたのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">テクノロジーの発達は、それまで受動的な存在だった多くの人々を積極的でクリエイティヴな発信者に変えつつある。〈プロシューマー〉の誕生である。けれども事態はそこには留まらない。かつて芸術家やアーティスト、あるいは、クリエイターと呼ばれた人たちをも同時に消費者へと変容させつつある。</font></p><p><font size="3" face="Arial">端的に言えば、メディアアートに関わる人は、それがファインアートの様式をとればとるほど収入を得るのがむずかしくなりつつある。絵画や彫刻であれば作品の販売が可能だったのに対し、複製可能なメディアアートの場合、芸術作品としての販売にはおのずと限界がある。「メディア芸術」として一般的な商品経済に組み込むのも一つの回答だが、そうした回路に乗らない作品も少なくない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">さらにいえば、新しいテクノロジーを手にした多くの人々たちが、それまでそれを職業としていた専門職を浸食しつつある。デザインやポピュラー音楽の分野では、この構造変化は顕著である。何かを表現することを通じて収入を得る時代が終焉しつつあり、表現をするためにお金を払わなければいけない時代を迎えつつあるのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">このような時代に、メディアアートは10年前に信じられたような形式で可能なのだろうか。これについては、いささか悲観的にならざるをえない。アーティストの役割はもはや何か具体的な作品を作り出すことではなく、より広い意味での社会のデザインやコミュニケーションのデザインに移行しつつある。そうした時代において、美術館やギャラリーのような静的な空間における「展示」という形式それ自体が古びつつあるのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">実際「クリエイティヴ・ファンタジスタ」の本当の可能性は、展示ではなく、連日開催されたさまざまシンポジウムやイベント、ライブにあったように感じられる。とりわけ、企画者の岡田智博が語り手となって、作曲家の安野太郎（Poino TV）や演出家の危口統之（悪魔のしるし）がインターネットを通じて映像発信を行った「クリエイティヴクラスターに50の質問」は、この全体の企画の限界と可能性をはからずも露呈する、クライマックスとでも呼ぶべきライブイベントだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">これは、あらかじめ用意した悪意溢れる質問に対して語り手である岡田が答えていくというという企画である。最初はいやいや参加するそぶりを見せていた語り手が、その途中からノリノリになり、選挙演説を始め、ラップを歌い、なぜかダンスまで見せ、最後に自作のブルースで締めるというハチャメチャな、というか、グダグダの展開の放送(事故)イベントだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">興味深いのは、このライブイベントのアナーキーさが、プロフェッショナリズムではなく徹底したアマチュアリズム、友人同士の悪フザケのようなものに支えられていることである。そのアマチュアリズムは、「芸術」の文法を期待する視聴者、鑑賞者を途方に暮れさせただろうし、困惑させたかもしれない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、ソーシャルメディアの可能性とは、実のところ「芸術」や「文化」のという言葉の鎧の下に隠されている、身も蓋もないアマチュアリズムや俗っぽさを公的な場所に引き出すことにあるのかもしれない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">正直言って、このことが「クリエイティヴ・ファンタジスタ」の企画意図に含まれていたのかどうかわからない。けれども、こうした問題提起は、文化庁メディア芸術祭のような公的な議論から抜け落ちてしまっているけれども議論すべき論点を多くはらんでいたように思える。「クリテエイティヴ・ファンタジスタ」が今後どこに向かうのか興味深く見守りたい。</font></p><p><font size="3" face="Arial">クリエイティヴ・ファンタジスタ：http://fantasista.creativecluster.jp/<br /></font></p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/eb523/100252395/224827_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">　メディアアート界のトリックスター、クリエイティヴクラスターの岡田智博が企画した「クリエイティヴ・ファンタジスタ」（会場：原宿VACANT、会期：2011年2月5日～20日）に行ってきた。</font></p><p><font size="3" face="Arial">　会期は、ちょうど文化庁メディア芸術祭が国立新美術館で開催されていた時期とほぼ重なっている。この時期にあえてインデペンデントな企画をぶつけ、オルタナティヴなメディアアートのあり方を模索するその姿勢と情熱は、なによりそれだけでも賞賛に値する。</font></p><p><font size="3" face="Arial">メディアアートの変容を近年の「ソーシャルメディア」の隆盛に照らし合わせ、行政や産業主導ではない、市民やユーザー主導の、別のメディアのあり方へのアプローチを試みていたのも興味深い。前回の本コラムでも紹介した３Ｄプリンタなど新しいメディアテクノロジーが、新たなコミュニケーションの可能性を切り開いていることを示す展覧会だったと言えるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、その展示を見ながらあらためて考えさせられたことは、そもそもメディアアートとは何か、それは「芸術」として自律しているのか、ということだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">もちろんこれは、アニメやマンガなどサブカルチャーやプロダクトを含む文化庁メディア芸術祭にも関わる問題である。けれども、文化庁メディア芸術祭の方では、これに対するすでに回答は出されている。そこでいう「メディア芸術」は、古典的な「芸術」とは異なった、よりはっきりと商業的なエンターテインメントの領域として設定されている。むしろ、「クリエイティヴ・ファンタジスタ」の方が、展示の形式として伝統的な芸術に沿っているように見えるためにより深刻な問いに思えたのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">テクノロジーの発達は、それまで受動的な存在だった多くの人々を積極的でクリエイティヴな発信者に変えつつある。〈プロシューマー〉の誕生である。けれども事態はそこには留まらない。かつて芸術家やアーティスト、あるいは、クリエイターと呼ばれた人たちをも同時に消費者へと変容させつつある。</font></p><p><font size="3" face="Arial">端的に言えば、メディアアートに関わる人は、それがファインアートの様式をとればとるほど収入を得るのがむずかしくなりつつある。絵画や彫刻であれば作品の販売が可能だったのに対し、複製可能なメディアアートの場合、芸術作品としての販売にはおのずと限界がある。「メディア芸術」として一般的な商品経済に組み込むのも一つの回答だが、そうした回路に乗らない作品も少なくない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">さらにいえば、新しいテクノロジーを手にした多くの人々たちが、それまでそれを職業としていた専門職を浸食しつつある。デザインやポピュラー音楽の分野では、この構造変化は顕著である。何かを表現することを通じて収入を得る時代が終焉しつつあり、表現をするためにお金を払わなければいけない時代を迎えつつあるのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">このような時代に、メディアアートは10年前に信じられたような形式で可能なのだろうか。これについては、いささか悲観的にならざるをえない。アーティストの役割はもはや何か具体的な作品を作り出すことではなく、より広い意味での社会のデザインやコミュニケーションのデザインに移行しつつある。そうした時代において、美術館やギャラリーのような静的な空間における「展示」という形式それ自体が古びつつあるのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">実際「クリエイティヴ・ファンタジスタ」の本当の可能性は、展示ではなく、連日開催されたさまざまシンポジウムやイベント、ライブにあったように感じられる。とりわけ、企画者の岡田智博が語り手となって、作曲家の安野太郎（Poino TV）や演出家の危口統之（悪魔のしるし）がインターネットを通じて映像発信を行った「クリエイティヴクラスターに50の質問」は、この全体の企画の限界と可能性をはからずも露呈する、クライマックスとでも呼ぶべきライブイベントだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">これは、あらかじめ用意した悪意溢れる質問に対して語り手である岡田が答えていくというという企画である。最初はいやいや参加するそぶりを見せていた語り手が、その途中からノリノリになり、選挙演説を始め、ラップを歌い、なぜかダンスまで見せ、最後に自作のブルースで締めるというハチャメチャな、というか、グダグダの展開の放送(事故)イベントだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">興味深いのは、このライブイベントのアナーキーさが、プロフェッショナリズムではなく徹底したアマチュアリズム、友人同士の悪フザケのようなものに支えられていることである。そのアマチュアリズムは、「芸術」の文法を期待する視聴者、鑑賞者を途方に暮れさせただろうし、困惑させたかもしれない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、ソーシャルメディアの可能性とは、実のところ「芸術」や「文化」のという言葉の鎧の下に隠されている、身も蓋もないアマチュアリズムや俗っぽさを公的な場所に引き出すことにあるのかもしれない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">正直言って、このことが「クリエイティヴ・ファンタジスタ」の企画意図に含まれていたのかどうかわからない。けれども、こうした問題提起は、文化庁メディア芸術祭のような公的な議論から抜け落ちてしまっているけれども議論すべき論点を多くはらんでいたように思える。「クリテエイティヴ・ファンタジスタ」が今後どこに向かうのか興味深く見守りたい。</font></p><p><font size="3" face="Arial">クリエイティヴ・ファンタジスタ：http://fantasista.creativecluster.jp/<br /></font></p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/ORnrPcVYSfw" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
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    <title>DiYのひとつの新しいかたち：D&amp;#9829;YとFabLab</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/95bnCYaSeI0/E20110228001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/4a7d9/100252395/221785_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">　これまでDiY文化をこのコラムでは紹介してきたが、最近こうしたかたちで発展しているのか、とあらためて思わせるイベントに参加した。D&hearts;Yというイベントである。「&hearts;」は、「愛＝アイ」と読ませて、「ディーアイワイ」と発音するらしい。ホームページには次のように紹介されている。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">「D&hearts;Y」は2010年に東京でスタートした、体験、共感型の新しいイベントです。お店とお客、作り手と受け手といった一方向の関係ではなく、相互が作用しながらその場でしかできないモノやコトを生み出す場所が「D&hearts;Y」です。クラフト、デザイン、アートやフードといった垣根を超えた、あらゆるジャンルからDIY的な活動をする人たちが参加する、DOとYOUを&hearts;でつなぐDIYなイベントです。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">参加したきっかけは、川口のメディアセブンで企画を担当している旧知の氏原茂将さんに声をかけられたからである。実は会場に着くまで、このイベントについてほとんど何も知らなかったのだが、それが期待していた以上に面白かったのだ。<br />　会場は、東横線の学芸大学駅から少し離れた、宿泊と飲食店、イベント会場を併せ持ったCLASKAという複合施設の８階と屋上。８階では、自分自身で実際に作業をしてモノを作ることができる工房的なワークショップが行われたり、DIY的活動のための支援組織やテクノロジーが紹介されたりしている。屋上では、食事のストールが並ぶ中でトークイベントが行われている。ちなみに、私はそのトークイベントに呼ばれたのだった。<br />　興味深いのは、なによりも女の子が多かったことだ。手芸や紙を使ったクラフトのワークショップがたくさん行われていたことにもよるのだろうが、個性的な装いをした女の子たちが多く参加していたことが印象だった。会場では、金銭の代わりに「１&hearts;（アイ）＝100円」という単位の貨幣のみが使われる、なんていうのも子どもの時の「買い物ごっこ」のようでおもしろい。<br />こんなことをあらためて強調するのも、これまで私がDiY文化という時、どこか男主体のボーイズ・カルチャーになりがちだったからだ。それは、パンクロックにその起源を求め、インターネット文化を中心に最近の動向を見ていたかもしれない。<br />もちろん、ここで過度に男の子と女の子の文化を区別することが、伝統的な男女のジェンダー区分を強化、再生産する危険性があることは注意すべきだろう。けれでも、この新しいフェミニンなDiY文化が、単に素朴な手作りの技術だけではなく、さまざまな新しいテクノロジーによって支えられていることによって、旧来の役割分担を越える試みになっていることをあえて肯定的に捉えたい。それは、しばしばマッチョで排他的になりがちなボーイズ・カルチャーのテクノロジーを、いわば「かわいさ」によって奪還しようという試みでもあるのだ。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">D&hearts;Yのオーガナイザーの一人であり、気鋭のデザイナーでもある橋詰宋さんの後に私が対談した、平本知樹さんが参加しているFabLab Japan（ファブラボ・ジャパン）もそうしたテクノロジーの新しいインフラを作り出そうというプロジェクトである。FabLab自体は国際的なネットワークですでに３０カ国以上の国で活動が行われているというが、たとえば三次元プリンタやカッティングマシンなどの工作機械を、もっと気軽に誰もが使えるようにするための工房プロジェクトである。<br />平本さんの話ではじめて知ったのだが、これまで一部の専門家しか使えなかった三次元プリンタやカッティングマシンの価格もかなり落ちてきて、それなりに普通の人が使えるようになってきているらしい。けれどもこうした情報や使い方はそれほど一般に知られているわけではないので、そこを支援しながら創造力を生みだしていこうというのがFabLabなのだ。<br />実際にプレゼンテーションを見ると、新しいテクノロジーによって、これまで既製品を買うしかなかったプロダクツの領域に次々とDiY的な要素が加わってきているのがよくわかる。これまで専門的な知識を受けた人だけが独占してきた創造性の領域がテクノロジーの支援によって驚くほど民主化されつつあるのだ。<br />その一方で、これまでデザインやアートなど創造性を担っていた人たちの役割も変わりつつある。最終的なプロダクトの完成品を、伝統的な意味でデザインするのではなく、そうした製造過程全体のプロセスやコミュニケーションを総合的にデザイン、プロデュースすることが求められている。<br />D&hearts;YやFabLabの試みはそうしたデザインの新しい役割の第一歩のようにもみえる。D&hearts;Yは年に２～３回のペースでイベントを続けていくというし、FabLabは今年5月に鎌倉には拠点を構えるという。これからの活動が注目される。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">D&hearts;Y：http://www.d-ai-y.info/3/<br />FabLab Japan: http://fablabjapan.org/<br />　</font></p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/4a7d9/100252395/221785_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">　これまでDiY文化をこのコラムでは紹介してきたが、最近こうしたかたちで発展しているのか、とあらためて思わせるイベントに参加した。D&hearts;Yというイベントである。「&hearts;」は、「愛＝アイ」と読ませて、「ディーアイワイ」と発音するらしい。ホームページには次のように紹介されている。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">「D&hearts;Y」は2010年に東京でスタートした、体験、共感型の新しいイベントです。お店とお客、作り手と受け手といった一方向の関係ではなく、相互が作用しながらその場でしかできないモノやコトを生み出す場所が「D&hearts;Y」です。クラフト、デザイン、アートやフードといった垣根を超えた、あらゆるジャンルからDIY的な活動をする人たちが参加する、DOとYOUを&hearts;でつなぐDIYなイベントです。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">参加したきっかけは、川口のメディアセブンで企画を担当している旧知の氏原茂将さんに声をかけられたからである。実は会場に着くまで、このイベントについてほとんど何も知らなかったのだが、それが期待していた以上に面白かったのだ。<br />　会場は、東横線の学芸大学駅から少し離れた、宿泊と飲食店、イベント会場を併せ持ったCLASKAという複合施設の８階と屋上。８階では、自分自身で実際に作業をしてモノを作ることができる工房的なワークショップが行われたり、DIY的活動のための支援組織やテクノロジーが紹介されたりしている。屋上では、食事のストールが並ぶ中でトークイベントが行われている。ちなみに、私はそのトークイベントに呼ばれたのだった。<br />　興味深いのは、なによりも女の子が多かったことだ。手芸や紙を使ったクラフトのワークショップがたくさん行われていたことにもよるのだろうが、個性的な装いをした女の子たちが多く参加していたことが印象だった。会場では、金銭の代わりに「１&hearts;（アイ）＝100円」という単位の貨幣のみが使われる、なんていうのも子どもの時の「買い物ごっこ」のようでおもしろい。<br />こんなことをあらためて強調するのも、これまで私がDiY文化という時、どこか男主体のボーイズ・カルチャーになりがちだったからだ。それは、パンクロックにその起源を求め、インターネット文化を中心に最近の動向を見ていたかもしれない。<br />もちろん、ここで過度に男の子と女の子の文化を区別することが、伝統的な男女のジェンダー区分を強化、再生産する危険性があることは注意すべきだろう。けれでも、この新しいフェミニンなDiY文化が、単に素朴な手作りの技術だけではなく、さまざまな新しいテクノロジーによって支えられていることによって、旧来の役割分担を越える試みになっていることをあえて肯定的に捉えたい。それは、しばしばマッチョで排他的になりがちなボーイズ・カルチャーのテクノロジーを、いわば「かわいさ」によって奪還しようという試みでもあるのだ。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">D&hearts;Yのオーガナイザーの一人であり、気鋭のデザイナーでもある橋詰宋さんの後に私が対談した、平本知樹さんが参加しているFabLab Japan（ファブラボ・ジャパン）もそうしたテクノロジーの新しいインフラを作り出そうというプロジェクトである。FabLab自体は国際的なネットワークですでに３０カ国以上の国で活動が行われているというが、たとえば三次元プリンタやカッティングマシンなどの工作機械を、もっと気軽に誰もが使えるようにするための工房プロジェクトである。<br />平本さんの話ではじめて知ったのだが、これまで一部の専門家しか使えなかった三次元プリンタやカッティングマシンの価格もかなり落ちてきて、それなりに普通の人が使えるようになってきているらしい。けれどもこうした情報や使い方はそれほど一般に知られているわけではないので、そこを支援しながら創造力を生みだしていこうというのがFabLabなのだ。<br />実際にプレゼンテーションを見ると、新しいテクノロジーによって、これまで既製品を買うしかなかったプロダクツの領域に次々とDiY的な要素が加わってきているのがよくわかる。これまで専門的な知識を受けた人だけが独占してきた創造性の領域がテクノロジーの支援によって驚くほど民主化されつつあるのだ。<br />その一方で、これまでデザインやアートなど創造性を担っていた人たちの役割も変わりつつある。最終的なプロダクトの完成品を、伝統的な意味でデザインするのではなく、そうした製造過程全体のプロセスやコミュニケーションを総合的にデザイン、プロデュースすることが求められている。<br />D&hearts;YやFabLabの試みはそうしたデザインの新しい役割の第一歩のようにもみえる。D&hearts;Yは年に２～３回のペースでイベントを続けていくというし、FabLabは今年5月に鎌倉には拠点を構えるという。これからの活動が注目される。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">D&hearts;Y：http://www.d-ai-y.info/3/<br />FabLab Japan: http://fablabjapan.org/<br />　</font></p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/95bnCYaSeI0" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
    <dc:date>2011-02-28T16:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100830001.html">
    <title>居住空間をシェアすることについて考える</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/DyCXGwJq8_Y/E20100830001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/c9237/100252395/177114_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">この夏の大部分をヨーロッパで過ごした。ドイツのハイデルベルク大学で、ポピュラー音楽のワークショップがあり、そこに招待されたのがひとつの理由だが、せっかくなのでロンドンまで足を伸ばして、久しぶりに図書館に通って資料を集めていたのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">長期滞在しようと思った理由は、もう一つある。たまたま知り合いを通じて、長期のホリデイに出かける家族から、留守の間にその家に滞在して飼っている猫とモルモット、金魚などペットの世話をしてくれないかと頼まれたのだった。ペットの世話をする代わりに４ベッドルームで庭付きの家を占有できる、というのである。家はロンドン大学のゴールドスミスカレッジのすぐそばだ。ちなみに、その家族とは直接の面識はない。けれども、おかげでペットに餌をやりつつ大学に通うということで、暑い日本の夏から逃れることができた。</font></p><p><font size="3" face="Arial">夏休みに長期休暇を取る習慣があるヨーロッパでは、このように誰かに留守番を頼むというのは決して珍しくはない。もちろん、誰でもいいというわけではないから、広告や宣伝を出すわけではなく、知り合いの範囲で頼むのだが、いずれにしても留守にしておくよりは安全だし、何よりもどの家も犬や猫などペットを飼っているので、その世話を頼みたいということだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、これを日本と比較するとかなりヨーロッパ独特の固有の習慣でもある。そもそも日本で２?３週間もの長期休暇を取って家族で出かけるという習慣がないことが問題なのかもしれないが、仮に２週間家を空けるにしても、家族や親戚以外の（知り合いを通じてとはいえ）知らない人に泊まってもらうということはあまりないのではないか。ペットも誰かに預けることですませているはずだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ヨーロッパ人は、日本人と比べてパブリックとプライベートの区分がはっきりしていると言われる。もちろん、一般論としてこれは正しいのだが、その一方でプライベートな空間の中心である居住空間を一時的に人に使ってもらうことに対する抵抗は驚くほど小さい。</font></p><p><font size="3" face="Arial">特にイギリスのフラットは、家具付き（これには食器や家電も多くの場合含まれる）が多いが、これも大家が使っていたものをそのまま貸し出しているものである。もともと家族で家全体を使っていたけど、構成員が成長して出て行った後に空いた部屋を他人に貸す、なんていうのは、よくあるフラットの形式である。キッチンやバス・トイレは共有の場合が多い。一方、日本で、全くの他人に使わなくなった部屋を貸しているなんていうのは、よっぽどの豪邸でもない限りあまり考えられない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">イギリスのこうしたシェアの習慣を見ればわかるが、プライベートの境界線が家という居住空間の外側と内側の間で引かれているのではなく、居住空間の中に半ばパブリックな共有空間が確保されているのだ。そして、このことは、家族の間にさえも一定のパブリックネス（公共性と訳すべきだろうが、日本語だとニュアンスが変わってしまうのであえてカタカナのままで表記しよう）が存在することを示している。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ところで、最近日本でも若い人と話していると、さすがに休暇中に誰かに住んでもらうというのはないにしても、ヨーロッパ固有のものと思われていたハウスシェアやフラットシェアが、増えつつあるような気がする。『ラスト・フレンズ』のようなテレビドラマの影響もあるのかもしれないが、数人で都心に広めのマンションや一戸建てを借りて、家賃を分担し、キッチンやバス・トイレは共同で使おうというものだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">少子化の影響もあり、家族用の一戸建てやマンションは今後都心部では空き家・空き部屋が増えていくだろう。共同生活は、単に家賃を浮かせるだけではなく、セキュリティの面でもメリットがある。新しい都市空間の利用法である。今は友人同士で借りるのが主流だが、そのうちいろいろなパターンのシェアが生まれるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、居住空間の中の共有空間の実際の使い方については、いろいろと試行錯誤がまだまだ必要だ。必要以上に近すぎることもなく、かといって完全にアカの他人でもない新しい関係。こうした関係が日本の居住空間に根付くことができるのかどうか。</font></p><p><font size="3" face="Arial">休暇中に家を貸してもらってとても助かったが、これも日本で根付くかどうかを考えると、根本的な問題として今後居住空間をシェアするメンタリティがどう変化するのかということと密接な関係がある。そして、何よりも「家族」と「居住空間」、家族のプライバシーとパブリックネスのあり方が徹底的に変わる必要がある。ハウスシェアのひっそりとした浸透は、その兆しのようにも感じられるのだが、どうだろうか。<br /></font></p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/c9237/100252395/177114_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">この夏の大部分をヨーロッパで過ごした。ドイツのハイデルベルク大学で、ポピュラー音楽のワークショップがあり、そこに招待されたのがひとつの理由だが、せっかくなのでロンドンまで足を伸ばして、久しぶりに図書館に通って資料を集めていたのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">長期滞在しようと思った理由は、もう一つある。たまたま知り合いを通じて、長期のホリデイに出かける家族から、留守の間にその家に滞在して飼っている猫とモルモット、金魚などペットの世話をしてくれないかと頼まれたのだった。ペットの世話をする代わりに４ベッドルームで庭付きの家を占有できる、というのである。家はロンドン大学のゴールドスミスカレッジのすぐそばだ。ちなみに、その家族とは直接の面識はない。けれども、おかげでペットに餌をやりつつ大学に通うということで、暑い日本の夏から逃れることができた。</font></p><p><font size="3" face="Arial">夏休みに長期休暇を取る習慣があるヨーロッパでは、このように誰かに留守番を頼むというのは決して珍しくはない。もちろん、誰でもいいというわけではないから、広告や宣伝を出すわけではなく、知り合いの範囲で頼むのだが、いずれにしても留守にしておくよりは安全だし、何よりもどの家も犬や猫などペットを飼っているので、その世話を頼みたいということだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、これを日本と比較するとかなりヨーロッパ独特の固有の習慣でもある。そもそも日本で２?３週間もの長期休暇を取って家族で出かけるという習慣がないことが問題なのかもしれないが、仮に２週間家を空けるにしても、家族や親戚以外の（知り合いを通じてとはいえ）知らない人に泊まってもらうということはあまりないのではないか。ペットも誰かに預けることですませているはずだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ヨーロッパ人は、日本人と比べてパブリックとプライベートの区分がはっきりしていると言われる。もちろん、一般論としてこれは正しいのだが、その一方でプライベートな空間の中心である居住空間を一時的に人に使ってもらうことに対する抵抗は驚くほど小さい。</font></p><p><font size="3" face="Arial">特にイギリスのフラットは、家具付き（これには食器や家電も多くの場合含まれる）が多いが、これも大家が使っていたものをそのまま貸し出しているものである。もともと家族で家全体を使っていたけど、構成員が成長して出て行った後に空いた部屋を他人に貸す、なんていうのは、よくあるフラットの形式である。キッチンやバス・トイレは共有の場合が多い。一方、日本で、全くの他人に使わなくなった部屋を貸しているなんていうのは、よっぽどの豪邸でもない限りあまり考えられない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">イギリスのこうしたシェアの習慣を見ればわかるが、プライベートの境界線が家という居住空間の外側と内側の間で引かれているのではなく、居住空間の中に半ばパブリックな共有空間が確保されているのだ。そして、このことは、家族の間にさえも一定のパブリックネス（公共性と訳すべきだろうが、日本語だとニュアンスが変わってしまうのであえてカタカナのままで表記しよう）が存在することを示している。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ところで、最近日本でも若い人と話していると、さすがに休暇中に誰かに住んでもらうというのはないにしても、ヨーロッパ固有のものと思われていたハウスシェアやフラットシェアが、増えつつあるような気がする。『ラスト・フレンズ』のようなテレビドラマの影響もあるのかもしれないが、数人で都心に広めのマンションや一戸建てを借りて、家賃を分担し、キッチンやバス・トイレは共同で使おうというものだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">少子化の影響もあり、家族用の一戸建てやマンションは今後都心部では空き家・空き部屋が増えていくだろう。共同生活は、単に家賃を浮かせるだけではなく、セキュリティの面でもメリットがある。新しい都市空間の利用法である。今は友人同士で借りるのが主流だが、そのうちいろいろなパターンのシェアが生まれるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、居住空間の中の共有空間の実際の使い方については、いろいろと試行錯誤がまだまだ必要だ。必要以上に近すぎることもなく、かといって完全にアカの他人でもない新しい関係。こうした関係が日本の居住空間に根付くことができるのかどうか。</font></p><p><font size="3" face="Arial">休暇中に家を貸してもらってとても助かったが、これも日本で根付くかどうかを考えると、根本的な問題として今後居住空間をシェアするメンタリティがどう変化するのかということと密接な関係がある。そして、何よりも「家族」と「居住空間」、家族のプライバシーとパブリックネスのあり方が徹底的に変わる必要がある。ハウスシェアのひっそりとした浸透は、その兆しのようにも感じられるのだが、どうだろうか。<br /></font></p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/DyCXGwJq8_Y" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
    <dc:date>2010-08-30T16:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100809001.html">
    <title>暑い夏には、熱い河内音頭で：すみだ錦糸町河内音頭大盆踊りと二つのＣＤレーベルの設立</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/HjN46g-OLlw/E20100809001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/f3c9f/100252395/171871_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">河内音頭が盛り上がっている。知っている人にとっては何をいまさら、という感じかもしれない。けれども、やっぱり今盛り上がっていることは報告しておくべきだと思うのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">河内音頭の盛り上がりは、もちろん今に始まったことではない。ある意味河内音頭は、最初からずっと盛り上がっていた。盛り上がっていない河内音頭などそもそも存在しない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">とはいえ、河内音頭が、河内という固有の土地を離れ、日本各地に離散し始めたのはそう昔のことではない。ルポライターとして知られる朝倉喬司が「発見」し、音楽雑誌などで紹介し始めたのは1970年代末。その後東京河内音頭振興隊（現在の前関東河内音頭振興隊）が結成され、1982年には渋谷ライブインで『第一回河内音頭東京殴り込みコンサート』が開催される。</font></p><p><font size="3" face="Arial">河内音頭が、日本のソウルミュージックとして東京に認識され始めるのはこの時期である。そして、85年には東京錦糸町で「錦糸町大盆踊り '85　河内音頭・東京初櫓」が開催され、その後の関東における広がりの原型を作っていく。</font></p><p><font size="3" face="Arial">河内音頭といっても、何も知らない人は「ああ、盆踊りの一種ね」と済ませてしまうかもしれない。けれども、河内音頭が他の盆踊りと決定的に異なるところがある。それは、他の盆踊りが、「東京音頭」なら「東京音頭」、「炭坑節」なら「炭坑節」と決まった楽曲――その多くは古くから伝わる地域の民謡――に合わせて踊るのだが、河内音頭は多くの場合バンド形式で「演奏」される。その楽曲は、もちろん古典的なレパートリーもあるけれども、その時代時代に対応した新曲もたえず作り出されているのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">少し関心のある人なら、河内家菊水丸のことは知っているかもしれない。河内家菊水丸は、「グリコ森永事件」や「リクルート事件」など、話題となったニュースを扱い、河内音頭が持っていた社会批評的なニュース読みとしての特徴に再び関心を向けさせた。こうした盛り上がりの中で、1991年には『日本一あぶない音楽　河内音頭の世界』が前関東音楽振興隊編で出版された。この時期を、第一次河内音頭ブームと呼ぶことができるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、今の盛り上がりは、70年代末から90年代初頭とは幾分異なっているようだ。実は私自身もこのことに、つい最近まで気が付いていなかった。たまたま私の研究室で河内音頭研究をしている藤本愛によって、教えられたのだが、それは、彼女が東京藝術大学の公開研究シンポジウムとして「河内音頭藝術大学」を企画したのがきっかけだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">シンポジウムには、伊達政保（音楽評論家）、柴山とも子（関東踊り子代表）、鷲巣功（首都圏河内音頭推進協議会議長）、森江宏太（錦糸町河内音頭総合司会担当）、いちばけい（「イヤコラセ東京」管理人）といった現在の河内音頭シーンを支えるそうそうたるメンバーが参加し、現在の河内音頭についての討議を行ったのだが、それに加えて、「幻の音頭取り」とも呼ばれる山中一平によるミニライブと踊りの講習が行われ、普段はクラシックと実験的な音楽に溢れている芸大キャンパスを、河内音頭の強烈なリズムで熱狂の渦へと変容させた。その中で、関東における河内音頭が、これまでとは異なる次のステージに向かいつつあることを感じたのだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">その一つの契機は、河内音頭のＣＤレーベルがここに来て次々と設立されたことである。先述の山中一平率いる「山中一平＆河内オンドリャーズ／オンステージ」をリリースしたとZASHIKI RECORDS、そして名人と謳われた初音家賢次(はつねやけんじ)の50年前の録音をクラブミックスで復元した「初音家賢次／旅立て俊徳丸」を出した歌舞音曲。こうしたレーベルの動向は、河内音頭を一盆踊りのＢＧＭであることを越えて、ひとつのワールドミュージックとして捉えなおそうという試みと考えられるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">興味深いのは、こうした展開の背後で、河内音頭が東京の庶民の文化として確実に定着しつつあることである。毎夏錦糸町で行われる河内音頭には、三万人の人が押し掛けると聞く。テレビや新聞などマスコミではほとんど取り上げられないこのイベントが、ほとんど口コミだけでこれほど多くの人を熱狂させていることが、今日の河内音頭のしっかりとした浸透を物語っている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">二つのレーベルの誕生は、一方で現在の盛り上がりを河内音頭の発展の歴史の中に位置づける役割を果たすだろう。それは、しばしば歴史から周縁化され、抑圧されてきた庶民の声を取り戻す役割である。けれども、それは決して否定的な衝動からなされるのではない。むしろ、新しく河内音頭が創造されることを通じて、圧倒的に肯定的な熱狂と享楽の中から見出されるのだ。実際、どちらのＣＤも、伝統という枠に収まりきれない新鮮な驚きに溢れている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">さて、今年のすみだ錦糸町河内音頭大盆踊りは８月２５日（水）　２６日（木）。鉄砲光丸会、鳴門会に加え、山中一平＆河内オンドリャーズも参加する。暑い夏には、より熱い踊りで&hellip;&hellip;・。</font></p><p><font size="3" face="Arial">すみだ錦糸町河内音頭大盆踊りについては、イヤコラセ東京の公式ウエブサイトで。<br />http://www.geocities.jp/iyakorase/<br />このページでは、河内音頭普及の歴史の他、上述のＣＤの案内なども見ることができる。<br />http://www.geocities.jp/iyakorase/fm_history.htm</font></p><p><font size="3" face="Arial">山中一平＆河内オンドリャーズ<br />http://cabin.jp/ippei/<br /></font></p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/f3c9f/100252395/171871_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">河内音頭が盛り上がっている。知っている人にとっては何をいまさら、という感じかもしれない。けれども、やっぱり今盛り上がっていることは報告しておくべきだと思うのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">河内音頭の盛り上がりは、もちろん今に始まったことではない。ある意味河内音頭は、最初からずっと盛り上がっていた。盛り上がっていない河内音頭などそもそも存在しない。</font></p><p><font size="3" face="Arial">とはいえ、河内音頭が、河内という固有の土地を離れ、日本各地に離散し始めたのはそう昔のことではない。ルポライターとして知られる朝倉喬司が「発見」し、音楽雑誌などで紹介し始めたのは1970年代末。その後東京河内音頭振興隊（現在の前関東河内音頭振興隊）が結成され、1982年には渋谷ライブインで『第一回河内音頭東京殴り込みコンサート』が開催される。</font></p><p><font size="3" face="Arial">河内音頭が、日本のソウルミュージックとして東京に認識され始めるのはこの時期である。そして、85年には東京錦糸町で「錦糸町大盆踊り '85　河内音頭・東京初櫓」が開催され、その後の関東における広がりの原型を作っていく。</font></p><p><font size="3" face="Arial">河内音頭といっても、何も知らない人は「ああ、盆踊りの一種ね」と済ませてしまうかもしれない。けれども、河内音頭が他の盆踊りと決定的に異なるところがある。それは、他の盆踊りが、「東京音頭」なら「東京音頭」、「炭坑節」なら「炭坑節」と決まった楽曲――その多くは古くから伝わる地域の民謡――に合わせて踊るのだが、河内音頭は多くの場合バンド形式で「演奏」される。その楽曲は、もちろん古典的なレパートリーもあるけれども、その時代時代に対応した新曲もたえず作り出されているのだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">少し関心のある人なら、河内家菊水丸のことは知っているかもしれない。河内家菊水丸は、「グリコ森永事件」や「リクルート事件」など、話題となったニュースを扱い、河内音頭が持っていた社会批評的なニュース読みとしての特徴に再び関心を向けさせた。こうした盛り上がりの中で、1991年には『日本一あぶない音楽　河内音頭の世界』が前関東音楽振興隊編で出版された。この時期を、第一次河内音頭ブームと呼ぶことができるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、今の盛り上がりは、70年代末から90年代初頭とは幾分異なっているようだ。実は私自身もこのことに、つい最近まで気が付いていなかった。たまたま私の研究室で河内音頭研究をしている藤本愛によって、教えられたのだが、それは、彼女が東京藝術大学の公開研究シンポジウムとして「河内音頭藝術大学」を企画したのがきっかけだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">シンポジウムには、伊達政保（音楽評論家）、柴山とも子（関東踊り子代表）、鷲巣功（首都圏河内音頭推進協議会議長）、森江宏太（錦糸町河内音頭総合司会担当）、いちばけい（「イヤコラセ東京」管理人）といった現在の河内音頭シーンを支えるそうそうたるメンバーが参加し、現在の河内音頭についての討議を行ったのだが、それに加えて、「幻の音頭取り」とも呼ばれる山中一平によるミニライブと踊りの講習が行われ、普段はクラシックと実験的な音楽に溢れている芸大キャンパスを、河内音頭の強烈なリズムで熱狂の渦へと変容させた。その中で、関東における河内音頭が、これまでとは異なる次のステージに向かいつつあることを感じたのだった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">その一つの契機は、河内音頭のＣＤレーベルがここに来て次々と設立されたことである。先述の山中一平率いる「山中一平＆河内オンドリャーズ／オンステージ」をリリースしたとZASHIKI RECORDS、そして名人と謳われた初音家賢次(はつねやけんじ)の50年前の録音をクラブミックスで復元した「初音家賢次／旅立て俊徳丸」を出した歌舞音曲。こうしたレーベルの動向は、河内音頭を一盆踊りのＢＧＭであることを越えて、ひとつのワールドミュージックとして捉えなおそうという試みと考えられるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">興味深いのは、こうした展開の背後で、河内音頭が東京の庶民の文化として確実に定着しつつあることである。毎夏錦糸町で行われる河内音頭には、三万人の人が押し掛けると聞く。テレビや新聞などマスコミではほとんど取り上げられないこのイベントが、ほとんど口コミだけでこれほど多くの人を熱狂させていることが、今日の河内音頭のしっかりとした浸透を物語っている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">二つのレーベルの誕生は、一方で現在の盛り上がりを河内音頭の発展の歴史の中に位置づける役割を果たすだろう。それは、しばしば歴史から周縁化され、抑圧されてきた庶民の声を取り戻す役割である。けれども、それは決して否定的な衝動からなされるのではない。むしろ、新しく河内音頭が創造されることを通じて、圧倒的に肯定的な熱狂と享楽の中から見出されるのだ。実際、どちらのＣＤも、伝統という枠に収まりきれない新鮮な驚きに溢れている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">さて、今年のすみだ錦糸町河内音頭大盆踊りは８月２５日（水）　２６日（木）。鉄砲光丸会、鳴門会に加え、山中一平＆河内オンドリャーズも参加する。暑い夏には、より熱い踊りで&hellip;&hellip;・。</font></p><p><font size="3" face="Arial">すみだ錦糸町河内音頭大盆踊りについては、イヤコラセ東京の公式ウエブサイトで。<br />http://www.geocities.jp/iyakorase/<br />このページでは、河内音頭普及の歴史の他、上述のＣＤの案内なども見ることができる。<br />http://www.geocities.jp/iyakorase/fm_history.htm</font></p><p><font size="3" face="Arial">山中一平＆河内オンドリャーズ<br />http://cabin.jp/ippei/<br /></font></p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/HjN46g-OLlw" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
    <dc:date>2010-08-09T16:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100726001.html">
    <title>地方都市でアートを続けること：白川昌生・技能実践家としてのアーティスト</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/vjZxVXjU7kM/E20100726001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/29fd3/100252395/167732_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font face="Arial"><font face="Arial"></font></font></p><p><br /><font size="3">　意外に思われるかもしれないが、自分の人生と振り返ると東京以外の土地で生活していたことの方が長い。大学までは、小中学校の一時期を除いてはだいたい関西で過ごしていたし、その後ロンドンに行ったり、九州大学で教えていたりしたりしたので、東京で過ごしたのは、おそらく人生の三分の一強である。</font></p><p><font size="3">　自分の著作が東京中心主義だという批判をしばしば受けるが、そのことは私自身が強烈に反省している。これから、私の一つの作業は、東京以外の都市文化の見直しと再生のお手伝いに向かうべきだろう。</font></p><p><font size="3">いずれにしても、東京に何もかもが集中して見えることは問題だ。たとえば、ヨーロッパには確実に首都以外の街に都市文化が根付いている。たとえば、８０年代以降イギリスの音楽シーンを牽引したマンチェスター市は、人口四十万人ちょっとで、百万人前後の仙台市や北九州市よりもはるかに小さく、むしろ前橋市などに近い中規模都市である。</font></p><p><font size="3">　どうして、日本にはこうした中規模都市に文化が育たないのか。</font></p><p><font size="3">これについてはいろんな理由が考えられるだろうが、その大きな理由は、七十年代の日本列島改造がもたらした弊害がまだ残っていることにある。首都の過密と地方の過疎化の問題を解決するはずだった交通網の整備は、結果的にすべてを東京一極集中化させるいわゆるストロー効果を生みだした。人々は整備された高速道路や鉄道によって、より東京に引き付けられ、東京近郊の地方都市は、東京の「郊外」と化すか、そうでなければ空洞化したのである。</font></p><p><font size="3">　このことは、文化や芸術にも大きなダメージを与えた。それまでどの地方都市にも小さいながらも文学サークルや芸術サークルがあり、独自の文化を育んでいた。ところが交通網と情報網の整備によって、均質化された日本国土は、地方の固有の、豊かな文化を消し去りつつある。インターネットは決定的にダメージを与えるメディアになるかもしれない。</font></p><p><font size="3">　むしろそうであれば、今重要なことは、繋がることではなくて、むしろ切断すること、あえて距離を取ることではないだろうか。</font></p><p><font size="3">　今回、紹介したいのは、そうした中で独自の活動を続けている前橋のアーティスト、白川昌生である。白川はドイツから帰国後、群馬県前橋に住み、場所にこだわりながら作家活動を続けてきた。「場所　群馬」というのは、そうした白川が地元の作家たちと立ち上げたプロジェクトである。それは、地域の歴史や人々、そして土地に徹底的にこだわりながら、アートを考え、作るプロジェクトである。ここで、重要なのは、単に表現するだけではなく、そこで生活ができる環境を作り出そうという点である。</font></p><p><font size="3">　「場所群馬」のホームページでは、次のようにコンセプトを紹介している。</font></p><p><font size="3">まず、作家にとって作家活動のみで暮せる環境を作り出していくこと、から始める必要がある。当然ここには制作のみならず生活のあらゆる場面が設定されていく。そこを作家一人だけでなく、共感者、NPO的な人たちが関わって環境を変容、拡大していく活動の可能性の場がうまれてくる。</font></p><p><font size="3">アーティストだから作品を売るのは当然として、白川の興味深いところは、単に作品を売ることを越えて、より広範囲なアートをめぐる経済――ある種の贈与経済――を作り出そうとしている点である。たとえば、地域通貨に代表されているオルタナティヴな経済の実験もここには含まれている。</font></p><p><font size="3">　白川昌生は、アーティストであると同時に、アマチュアの美術史家であり、すぐれた美術批評家でもある。「アマチュア」というのは、否定的な意味ではない。むしろプロの美術史家が事実関係の確認や瑣末な歴史的事実に耽溺しがちなのに対し、彼が提示するのは一つのパースペクティヴ、世界観である。</font></p><p><font size="3">その端的な例は、『日本のダダ：１９２０－１９７０』のような仕事に見ることができる。日本におけるダダの影響やオリジナルなダダの動向を図版によって見せるというこのプロジェクトは、伝統的な美術史研究からは決して発想できなかったものだ。それは、同時に、アーティストとしての彼自身の足場を探る作業でもある。</font></p><p><font size="3">　その白川が、今年になって５冊目になる批評集『美術館・動物園・精神科施設』を発表した。これは、今日のアーティストの経済と生活のあり方を分析する一方で、近代化における美術館と美術制度が、動物園や精神科施設の制度とどのようにパラレルに形成されたかを論じた意欲作である。</font></p><p><font size="3">　この本の中にはいろいろと論ずるべき論点があるが、特にＤＩＹ文化の関連で重要なのは、彼が提案する「技能実践家としてのアーティスト」という概念である。これは、「職業としてのアーティスト」とも「英雄としてのアーティスト」ともちがい、社会の中に入り込みながら、社会を組織し、「感性的、身体的手段によって人々との共同的社会的絆を再生する」（前掲書p.68）役割を積極的に引き受ける人を指している。</font></p><p><font size="3">　群馬にこだわり、中央から距離を取り続けるこの稀有な技能実践家である白川昌生を通じて、地方都市でアートを続けることの意味を考えたいと思う。<br /><br /></font></p><p><font size="3">場所群馬<br />http://www.basho-gunma.com/index.html<br />『日本のダダ：1920―1970』白川昌生編集　水声社<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4891765585<br />『美術館・動物園・精神科施設』白川昌生　水声社<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4891767596/</font><br /></p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/29fd3/100252395/167732_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font face="Arial"><font face="Arial"></font></font></p><p><br /><font size="3">　意外に思われるかもしれないが、自分の人生と振り返ると東京以外の土地で生活していたことの方が長い。大学までは、小中学校の一時期を除いてはだいたい関西で過ごしていたし、その後ロンドンに行ったり、九州大学で教えていたりしたりしたので、東京で過ごしたのは、おそらく人生の三分の一強である。</font></p><p><font size="3">　自分の著作が東京中心主義だという批判をしばしば受けるが、そのことは私自身が強烈に反省している。これから、私の一つの作業は、東京以外の都市文化の見直しと再生のお手伝いに向かうべきだろう。</font></p><p><font size="3">いずれにしても、東京に何もかもが集中して見えることは問題だ。たとえば、ヨーロッパには確実に首都以外の街に都市文化が根付いている。たとえば、８０年代以降イギリスの音楽シーンを牽引したマンチェスター市は、人口四十万人ちょっとで、百万人前後の仙台市や北九州市よりもはるかに小さく、むしろ前橋市などに近い中規模都市である。</font></p><p><font size="3">　どうして、日本にはこうした中規模都市に文化が育たないのか。</font></p><p><font size="3">これについてはいろんな理由が考えられるだろうが、その大きな理由は、七十年代の日本列島改造がもたらした弊害がまだ残っていることにある。首都の過密と地方の過疎化の問題を解決するはずだった交通網の整備は、結果的にすべてを東京一極集中化させるいわゆるストロー効果を生みだした。人々は整備された高速道路や鉄道によって、より東京に引き付けられ、東京近郊の地方都市は、東京の「郊外」と化すか、そうでなければ空洞化したのである。</font></p><p><font size="3">　このことは、文化や芸術にも大きなダメージを与えた。それまでどの地方都市にも小さいながらも文学サークルや芸術サークルがあり、独自の文化を育んでいた。ところが交通網と情報網の整備によって、均質化された日本国土は、地方の固有の、豊かな文化を消し去りつつある。インターネットは決定的にダメージを与えるメディアになるかもしれない。</font></p><p><font size="3">　むしろそうであれば、今重要なことは、繋がることではなくて、むしろ切断すること、あえて距離を取ることではないだろうか。</font></p><p><font size="3">　今回、紹介したいのは、そうした中で独自の活動を続けている前橋のアーティスト、白川昌生である。白川はドイツから帰国後、群馬県前橋に住み、場所にこだわりながら作家活動を続けてきた。「場所　群馬」というのは、そうした白川が地元の作家たちと立ち上げたプロジェクトである。それは、地域の歴史や人々、そして土地に徹底的にこだわりながら、アートを考え、作るプロジェクトである。ここで、重要なのは、単に表現するだけではなく、そこで生活ができる環境を作り出そうという点である。</font></p><p><font size="3">　「場所群馬」のホームページでは、次のようにコンセプトを紹介している。</font></p><p><font size="3">まず、作家にとって作家活動のみで暮せる環境を作り出していくこと、から始める必要がある。当然ここには制作のみならず生活のあらゆる場面が設定されていく。そこを作家一人だけでなく、共感者、NPO的な人たちが関わって環境を変容、拡大していく活動の可能性の場がうまれてくる。</font></p><p><font size="3">アーティストだから作品を売るのは当然として、白川の興味深いところは、単に作品を売ることを越えて、より広範囲なアートをめぐる経済――ある種の贈与経済――を作り出そうとしている点である。たとえば、地域通貨に代表されているオルタナティヴな経済の実験もここには含まれている。</font></p><p><font size="3">　白川昌生は、アーティストであると同時に、アマチュアの美術史家であり、すぐれた美術批評家でもある。「アマチュア」というのは、否定的な意味ではない。むしろプロの美術史家が事実関係の確認や瑣末な歴史的事実に耽溺しがちなのに対し、彼が提示するのは一つのパースペクティヴ、世界観である。</font></p><p><font size="3">その端的な例は、『日本のダダ：１９２０－１９７０』のような仕事に見ることができる。日本におけるダダの影響やオリジナルなダダの動向を図版によって見せるというこのプロジェクトは、伝統的な美術史研究からは決して発想できなかったものだ。それは、同時に、アーティストとしての彼自身の足場を探る作業でもある。</font></p><p><font size="3">　その白川が、今年になって５冊目になる批評集『美術館・動物園・精神科施設』を発表した。これは、今日のアーティストの経済と生活のあり方を分析する一方で、近代化における美術館と美術制度が、動物園や精神科施設の制度とどのようにパラレルに形成されたかを論じた意欲作である。</font></p><p><font size="3">　この本の中にはいろいろと論ずるべき論点があるが、特にＤＩＹ文化の関連で重要なのは、彼が提案する「技能実践家としてのアーティスト」という概念である。これは、「職業としてのアーティスト」とも「英雄としてのアーティスト」ともちがい、社会の中に入り込みながら、社会を組織し、「感性的、身体的手段によって人々との共同的社会的絆を再生する」（前掲書p.68）役割を積極的に引き受ける人を指している。</font></p><p><font size="3">　群馬にこだわり、中央から距離を取り続けるこの稀有な技能実践家である白川昌生を通じて、地方都市でアートを続けることの意味を考えたいと思う。<br /><br /></font></p><p><font size="3">場所群馬<br />http://www.basho-gunma.com/index.html<br />『日本のダダ：1920―1970』白川昌生編集　水声社<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4891765585<br />『美術館・動物園・精神科施設』白川昌生　水声社<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4891767596/</font><br /></p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/vjZxVXjU7kM" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
    <dc:date>2010-07-26T16:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100628001.html">
    <title>あらためてアンダーグランドなポピュラー音楽史を考える：ミック・ファレン、ポストパンク、そして、アーサー・ラッセル</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/SAsMhFxDY6M/E20100628001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/fb694/100252395/159916_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">ここに来て、60年代から70年代のポピュラー音楽の歴史を捉えなおす本が立て続けに翻訳された。60年代といえば、もう半世紀近く前の遠い昔の出来事になりつつある。けれども、デジタル化が進み、音楽産業が質的な転換を迫られている今、「そもそも音楽の魅力とは何だったのか」を問い直す時期に来ている。メインストリームとは異なる、これまであまり描かれてこなかったポピュラー音楽史を見直すことは、2010年代の今後の音楽シーンを占うヒントになると思うので、まとめて紹介しておこう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">まず、一冊目は、ミック・ファレンの『アナキストに煙草を』である。ミック・ファレンは、パンクをある種先取りした60年代のサイケデリック・バンド「デヴィアンツ」のリーダーとしても知られる音楽ジャーナリストである。イギリス人らしい独特の屈折した――サカスティックな――文体に彩られたこの本は、自らの60年代のサイケデリック・ヒッピーライフを中心に、もうひとつのイギリスの音楽史を語ったもの。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ジャック・ケルアックやウイリアム・バロウズなどのビート文学やボブ・ディランに代表されるアメリカのロック文化が、ロンドンにどのように受け入れられ、独自の発展をしていったかが、よくわかる。ドラッグにまみれたその生活はどこまでもハチャメチャなのだが、その一方で、その感性は中学生のように青々しく、純粋で、時に痛ましい。70年代以降に商業化されたロックが、その創世記において持っていた政治や他の領域の文化との交錯点をいかに失ってしまったかということをあらためて思い起こさせる。</font></p><p><font size="3" face="Arial">二冊目は、サイモン・レイノルズの『ポストパンク・ジェネレーション：1978‐1984』。セックス・ピストルズ解散後にジョン・ライドンが結成した「パブリック・イメージ・リミティッド（ＰＩＬ）」以降数年間の実験的な音楽シーンを「ポストパンク」として括り、当時の雑誌や当事者の証言などから詳細に再構成した本だ。スクリッティ・ポリッティ、フライング・リザーズ、キャバレー・ヴォルテール、ＤＮＡ、ジェームズ・チャンス＆ザ・コントーションズ、スロッビング・グリッセル&hellip;&hellip;。私自身が同時代的に経験した音楽がその当時持っていた「過激」で「革命的」な雰囲気が、生き生きと再現されている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">そして、最後に紹介したいのは、ニューヨークの奇才アーサー・ラッセルの伝記的研究書、ティム・ローレンスの『アーサー・ラッセル：ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』。</font></p><p><font size="3" face="Arial">アーサー・ラッセルと言っても知らない人の方が多いかもしれない。こう紹介している私も、実は初期のアンダーグラウンド・ディスコ・シーンで活躍した奇妙な実験的ミュージシャンという以上の知識をこの本を読むまでは持っていなかった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">実際にこの本を読むと、ラッセルと彼を取り巻く70年代の文化シーンが、その後の実験音楽（とりわけミニマル音楽）と現代美術、ドラッグ・カルチャーそしてディスコ／ゲイ／ハウス・カルチャーの生成の場だったことに驚かされる。アーサー・ラッセルは、70年代前半にクラシックの演奏者としてニューヨークの実験音楽の拠点だったザ・キッチンの音楽監督を務め、フィリップ・グラスなどの作品収録を行う一方で、ボブ・ブランクやフランソワ・ケヴォーキアン、ラリー・レヴァンなど、先駆的なエンジニア、プロデューサー、ＤＪと協力しながらディスコ／ハウスの草分け的12インチシングルを制作し、自らチェロとヴォーカルを中心としたアルバムを作る。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、そのあまりの変幻自在さのために、ニューヨークのダウンタウンの他の革新者であるフィリップ・グラスやローリー・アンダーソン、デヴィッド・バーンのように歴史の中にほとんどこの奇才はほとんどまともに評価されることはなかった。先述のサイモン・レイノルズは、アーサー・ラッセルの崇拝者であることを公言しているが、『ポストパンク・ジェネレーション』ではほとんど触れられていない。「私たちは、アーサー以外は全員が受け入れた&hellip;&hellip;。彼は人生の最後までアンダーグラウンドなミュージシャンだった」（グラスの回想）のである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">アーサー・ラッセルを今再発見することは、今では別々に分かれてしまったミニマル音楽以降の実験音楽やニューヨークのアートシーンとハウスミュージックの接点をあらためて考えなおすことだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">さて、こうしたポピュラー音楽史の再検討を、世代的なノスタルジーとして括るのはもったいない。実際、私のような比較的世代が重なる者にとっても、初めて知る事実の方が多い。むしろ、その頃「音」として知ることができなかった音楽が、さまざまな文化の重なりあいから生まれていた事実をあらためて音楽の可能性として考えたい。それは、非物質的なデジタルデータのやりとりに還元されがちな最近の音楽を、文化と政治と生活の中に位置づけなおすことなのだ。</font></p><font face="Arial"><p><br />ミック・ファレン『アナキストに煙草を』（赤川有起子訳／メディア総合研究所）<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4944124376/<br />サイモン・レイノルズ『ポストパンク・ジェネレーション：1978‐1984』<br />（野中モモ・新井崇司訳／シンコーミュージック・エンターテイメント）<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4401634047/<br />ティム・ローレンス『アーサー・ラッセル：ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』<br />（野田努監修・山根夏美訳／ブルース・インターアクションズ）<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4860203623</p><p>&nbsp;</p></font>&nbsp;]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/fb694/100252395/159916_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">ここに来て、60年代から70年代のポピュラー音楽の歴史を捉えなおす本が立て続けに翻訳された。60年代といえば、もう半世紀近く前の遠い昔の出来事になりつつある。けれども、デジタル化が進み、音楽産業が質的な転換を迫られている今、「そもそも音楽の魅力とは何だったのか」を問い直す時期に来ている。メインストリームとは異なる、これまであまり描かれてこなかったポピュラー音楽史を見直すことは、2010年代の今後の音楽シーンを占うヒントになると思うので、まとめて紹介しておこう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">まず、一冊目は、ミック・ファレンの『アナキストに煙草を』である。ミック・ファレンは、パンクをある種先取りした60年代のサイケデリック・バンド「デヴィアンツ」のリーダーとしても知られる音楽ジャーナリストである。イギリス人らしい独特の屈折した――サカスティックな――文体に彩られたこの本は、自らの60年代のサイケデリック・ヒッピーライフを中心に、もうひとつのイギリスの音楽史を語ったもの。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ジャック・ケルアックやウイリアム・バロウズなどのビート文学やボブ・ディランに代表されるアメリカのロック文化が、ロンドンにどのように受け入れられ、独自の発展をしていったかが、よくわかる。ドラッグにまみれたその生活はどこまでもハチャメチャなのだが、その一方で、その感性は中学生のように青々しく、純粋で、時に痛ましい。70年代以降に商業化されたロックが、その創世記において持っていた政治や他の領域の文化との交錯点をいかに失ってしまったかということをあらためて思い起こさせる。</font></p><p><font size="3" face="Arial">二冊目は、サイモン・レイノルズの『ポストパンク・ジェネレーション：1978‐1984』。セックス・ピストルズ解散後にジョン・ライドンが結成した「パブリック・イメージ・リミティッド（ＰＩＬ）」以降数年間の実験的な音楽シーンを「ポストパンク」として括り、当時の雑誌や当事者の証言などから詳細に再構成した本だ。スクリッティ・ポリッティ、フライング・リザーズ、キャバレー・ヴォルテール、ＤＮＡ、ジェームズ・チャンス＆ザ・コントーションズ、スロッビング・グリッセル&hellip;&hellip;。私自身が同時代的に経験した音楽がその当時持っていた「過激」で「革命的」な雰囲気が、生き生きと再現されている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">そして、最後に紹介したいのは、ニューヨークの奇才アーサー・ラッセルの伝記的研究書、ティム・ローレンスの『アーサー・ラッセル：ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』。</font></p><p><font size="3" face="Arial">アーサー・ラッセルと言っても知らない人の方が多いかもしれない。こう紹介している私も、実は初期のアンダーグラウンド・ディスコ・シーンで活躍した奇妙な実験的ミュージシャンという以上の知識をこの本を読むまでは持っていなかった。</font></p><p><font size="3" face="Arial">実際にこの本を読むと、ラッセルと彼を取り巻く70年代の文化シーンが、その後の実験音楽（とりわけミニマル音楽）と現代美術、ドラッグ・カルチャーそしてディスコ／ゲイ／ハウス・カルチャーの生成の場だったことに驚かされる。アーサー・ラッセルは、70年代前半にクラシックの演奏者としてニューヨークの実験音楽の拠点だったザ・キッチンの音楽監督を務め、フィリップ・グラスなどの作品収録を行う一方で、ボブ・ブランクやフランソワ・ケヴォーキアン、ラリー・レヴァンなど、先駆的なエンジニア、プロデューサー、ＤＪと協力しながらディスコ／ハウスの草分け的12インチシングルを制作し、自らチェロとヴォーカルを中心としたアルバムを作る。</font></p><p><font size="3" face="Arial">けれども、そのあまりの変幻自在さのために、ニューヨークのダウンタウンの他の革新者であるフィリップ・グラスやローリー・アンダーソン、デヴィッド・バーンのように歴史の中にほとんどこの奇才はほとんどまともに評価されることはなかった。先述のサイモン・レイノルズは、アーサー・ラッセルの崇拝者であることを公言しているが、『ポストパンク・ジェネレーション』ではほとんど触れられていない。「私たちは、アーサー以外は全員が受け入れた&hellip;&hellip;。彼は人生の最後までアンダーグラウンドなミュージシャンだった」（グラスの回想）のである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">アーサー・ラッセルを今再発見することは、今では別々に分かれてしまったミニマル音楽以降の実験音楽やニューヨークのアートシーンとハウスミュージックの接点をあらためて考えなおすことだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">さて、こうしたポピュラー音楽史の再検討を、世代的なノスタルジーとして括るのはもったいない。実際、私のような比較的世代が重なる者にとっても、初めて知る事実の方が多い。むしろ、その頃「音」として知ることができなかった音楽が、さまざまな文化の重なりあいから生まれていた事実をあらためて音楽の可能性として考えたい。それは、非物質的なデジタルデータのやりとりに還元されがちな最近の音楽を、文化と政治と生活の中に位置づけなおすことなのだ。</font></p><font face="Arial"><p><br />ミック・ファレン『アナキストに煙草を』（赤川有起子訳／メディア総合研究所）<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4944124376/<br />サイモン・レイノルズ『ポストパンク・ジェネレーション：1978‐1984』<br />（野中モモ・新井崇司訳／シンコーミュージック・エンターテイメント）<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4401634047/<br />ティム・ローレンス『アーサー・ラッセル：ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』<br />（野田努監修・山根夏美訳／ブルース・インターアクションズ）<br />http://www.amazon.co.jp/dp/4860203623</p><p>&nbsp;</p></font>&nbsp;<img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/SAsMhFxDY6M" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
    <dc:date>2010-06-28T16:00:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100524001.html">
    <title>もうひとつのコモンズ：ドキュメンタリー映画『グッドコピー・バッドコピー』</title>
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    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/4f7a6/100252395/149815_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">前々回にブレット・ゲイラー監督の『RiP! リミックス宣言』を紹介したが、今回は、この延長線上にありながら、オル</font><font size="3" face="Arial">タナティヴなコモンズ（共有物）の具体的なあり方を紹介しているドキュメンタリー映画を紹介したい。アンドレアス</font><font size="3" face="Arial">・ジョンセン他によるドキュメンタリー映画『グッドコピー・バッドコピー』である。<br />　<br />2007年に制作され、デンマークのテレビ局で放映されたこの作品は、現在はウエブ上でも公開されており、だれでも</font><font size="3" face="Arial">見ることができる。監督の一人であるアンドレアス・ジョンセンは、グラフィティを描いた映画『インサイド／アウト</font><font size="3" face="Arial">サイド』やブラジルのスラムで育まれた音楽バイレファンキの最重要人物ミスター・カトラを追った『ミスター・カト</font><font size="3" face="Arial">ラ：キング・オヴ・バイレファンキ』などの監督として知られ、日本でもＤＶＤがリリースされているから読者の中に</font><font size="3" face="Arial">は知っている人もいるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』は、『RiP! リミックス宣言』と同様にガールトークやＤＪデンジャーマウスをはじめ</font><font size="3" face="Arial">、既存の音源や映像を作ってラディカルな表現をしているミュージシャン、デジタル時代の著作権のあり方に取り組ん</font><font size="3" face="Arial">でいる研究者、企業や研究所のインタビューを通じて、新しい文化のコピー（複製）のあり方を探ろうというものだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">海賊党をはじめとする欧米の議論も興味深いが、それ以上に面白いのは、非西欧の場所で行われている制作の実践であ</font><font size="3" face="Arial">る。特にナイジェリアの映画産業「ノリウッド」とブラジルの「テクノブレガ」の例がすばらしい。</font></p><p><font size="3" face="Arial">インドの映画産業が「ボリウッド」と呼ばれ、「ハリウッド」とは全然違った形で世界的にも一大勢力となっているの</font><font size="3" face="Arial">は、よく知られるが、それに続く映画の生産拠点として注目されているのがナイジェリアである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』によれば、アメリカの一年の映画製作本数は611本、インドは900本であるのに対し</font><font size="3" face="Arial">て、ナイジェリアでは何と1200本の映画が製作されている！　ナイジェリアの人口は約1憶五千万人。世界八位の人</font><font size="3" face="Arial">口を誇るこの国の市場は、日本よりも大きい。もちろんアフリカでは最大である。</font></p><p><font size="3" face="Arial">こうした国にもかかわらず、ナイジェリアには西欧の著作権法に相当する法律がない、という。なぜか？　映画は最初</font><font size="3" face="Arial">にＤＶＤという形でリリースされるのだが、この正規版が十分に安いので、海賊版の競争力がないのだというのである</font><font size="3" face="Arial">。映画は、主として「アラバ国際マーケット」という市場で売られるのだが、映画の公開とほぼ同時期に廉化の正規版</font><font size="3" face="Arial">を出すことによって海賊版の侵入する契機をそもそも封じ込めようというのが、映画産業の戦略なのだ。法律ではなく</font><font size="3" face="Arial">、ビジネスモデルによって海賊版を無意味化しようというのである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">テクノブレガのビジネスモデルも興味深い。そもそもテクノブレガ自体が、既存の曲をリミックスすることで作られて</font><font size="3" face="Arial">いるので、権利関係を考えるとＣＤというパッケージ商品では販売がむずかしいものだ。テクノブレガの楽曲の多くは</font><font size="3" face="Arial">複製されたＣＤとして道端で露天商によって売られている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">それでは、ミュージシャンはどのようにして生計を立てているのか？　それは大きなイベントを定期的に組織すること</font><font size="3" face="Arial">によってである。安価で売られているＣＤの売上はミュージシャンには還元されないが、それをプロモーションツール</font><font size="3" face="Arial">として使っているのである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">こうした手法は、新聞にＣＤをおまけとして付けて配布したプリンスの戦略に似ているかもしれない。けれども、テク</font><font size="3" face="Arial">ノブレガが重要なのは、一人の天才的なミュージシャンがこうした戦略を取っているのではなく、シーン全体として新</font><font size="3" face="Arial">しい経済の仕組みを作っていることである。たとえば、パーティやイベントに来たお客さんは、たった今プレイされた</font><font size="3" face="Arial">曲のＣＤを「おみやげ」として買うこともできるようにしているという。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ノリウッドやテクノブレガの例を見ていると、欧米の著作権のあり方が、必ずしも絶対的でも普遍的なものでもなく、</font><font size="3" face="Arial">それ以外に経済として成立させうるいろいろな方策が存在することがわかる。実際に機能している、このようなオルタ</font><font size="3" face="Arial">ナティヴな経済に対して、一元的な市場原理を押し付けるのではなく、その中にむしろ未来の経済モデルの可能性を見</font><font size="3" face="Arial">出すことが今求められているのではないか。</font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』は、現在「フリーメディア・リサーチラボ（FMRL）」を中心に翻訳チームが字幕を</font><font size="3" face="Arial">付けているという。夏には上映会が予定され、ウェブ上でも見られるようになるはずなので、日本版で見たい人はあと</font><font size="3" face="Arial">しばらく待っていてほしい。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』ＨＰ<br />http://www.goodcopybadcopy.net/<br />フリーメディア・リサーチラボＨＰ<br />http://freemedia.researchlab.jp/about/</font></p><p><font face="Arial"></font>&nbsp;</p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/4f7a6/100252395/149815_pcl.jpg" class="entryImage" /><br /><p><font size="3" face="Arial">前々回にブレット・ゲイラー監督の『RiP! リミックス宣言』を紹介したが、今回は、この延長線上にありながら、オル</font><font size="3" face="Arial">タナティヴなコモンズ（共有物）の具体的なあり方を紹介しているドキュメンタリー映画を紹介したい。アンドレアス</font><font size="3" face="Arial">・ジョンセン他によるドキュメンタリー映画『グッドコピー・バッドコピー』である。<br />　<br />2007年に制作され、デンマークのテレビ局で放映されたこの作品は、現在はウエブ上でも公開されており、だれでも</font><font size="3" face="Arial">見ることができる。監督の一人であるアンドレアス・ジョンセンは、グラフィティを描いた映画『インサイド／アウト</font><font size="3" face="Arial">サイド』やブラジルのスラムで育まれた音楽バイレファンキの最重要人物ミスター・カトラを追った『ミスター・カト</font><font size="3" face="Arial">ラ：キング・オヴ・バイレファンキ』などの監督として知られ、日本でもＤＶＤがリリースされているから読者の中に</font><font size="3" face="Arial">は知っている人もいるだろう。</font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』は、『RiP! リミックス宣言』と同様にガールトークやＤＪデンジャーマウスをはじめ</font><font size="3" face="Arial">、既存の音源や映像を作ってラディカルな表現をしているミュージシャン、デジタル時代の著作権のあり方に取り組ん</font><font size="3" face="Arial">でいる研究者、企業や研究所のインタビューを通じて、新しい文化のコピー（複製）のあり方を探ろうというものだ。</font></p><p><font size="3" face="Arial">海賊党をはじめとする欧米の議論も興味深いが、それ以上に面白いのは、非西欧の場所で行われている制作の実践であ</font><font size="3" face="Arial">る。特にナイジェリアの映画産業「ノリウッド」とブラジルの「テクノブレガ」の例がすばらしい。</font></p><p><font size="3" face="Arial">インドの映画産業が「ボリウッド」と呼ばれ、「ハリウッド」とは全然違った形で世界的にも一大勢力となっているの</font><font size="3" face="Arial">は、よく知られるが、それに続く映画の生産拠点として注目されているのがナイジェリアである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』によれば、アメリカの一年の映画製作本数は611本、インドは900本であるのに対し</font><font size="3" face="Arial">て、ナイジェリアでは何と1200本の映画が製作されている！　ナイジェリアの人口は約1憶五千万人。世界八位の人</font><font size="3" face="Arial">口を誇るこの国の市場は、日本よりも大きい。もちろんアフリカでは最大である。</font></p><p><font size="3" face="Arial">こうした国にもかかわらず、ナイジェリアには西欧の著作権法に相当する法律がない、という。なぜか？　映画は最初</font><font size="3" face="Arial">にＤＶＤという形でリリースされるのだが、この正規版が十分に安いので、海賊版の競争力がないのだというのである</font><font size="3" face="Arial">。映画は、主として「アラバ国際マーケット」という市場で売られるのだが、映画の公開とほぼ同時期に廉化の正規版</font><font size="3" face="Arial">を出すことによって海賊版の侵入する契機をそもそも封じ込めようというのが、映画産業の戦略なのだ。法律ではなく</font><font size="3" face="Arial">、ビジネスモデルによって海賊版を無意味化しようというのである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">テクノブレガのビジネスモデルも興味深い。そもそもテクノブレガ自体が、既存の曲をリミックスすることで作られて</font><font size="3" face="Arial">いるので、権利関係を考えるとＣＤというパッケージ商品では販売がむずかしいものだ。テクノブレガの楽曲の多くは</font><font size="3" face="Arial">複製されたＣＤとして道端で露天商によって売られている。</font></p><p><font size="3" face="Arial">それでは、ミュージシャンはどのようにして生計を立てているのか？　それは大きなイベントを定期的に組織すること</font><font size="3" face="Arial">によってである。安価で売られているＣＤの売上はミュージシャンには還元されないが、それをプロモーションツール</font><font size="3" face="Arial">として使っているのである。</font></p><p><font size="3" face="Arial">こうした手法は、新聞にＣＤをおまけとして付けて配布したプリンスの戦略に似ているかもしれない。けれども、テク</font><font size="3" face="Arial">ノブレガが重要なのは、一人の天才的なミュージシャンがこうした戦略を取っているのではなく、シーン全体として新</font><font size="3" face="Arial">しい経済の仕組みを作っていることである。たとえば、パーティやイベントに来たお客さんは、たった今プレイされた</font><font size="3" face="Arial">曲のＣＤを「おみやげ」として買うこともできるようにしているという。</font></p><p><font size="3" face="Arial">ノリウッドやテクノブレガの例を見ていると、欧米の著作権のあり方が、必ずしも絶対的でも普遍的なものでもなく、</font><font size="3" face="Arial">それ以外に経済として成立させうるいろいろな方策が存在することがわかる。実際に機能している、このようなオルタ</font><font size="3" face="Arial">ナティヴな経済に対して、一元的な市場原理を押し付けるのではなく、その中にむしろ未来の経済モデルの可能性を見</font><font size="3" face="Arial">出すことが今求められているのではないか。</font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』は、現在「フリーメディア・リサーチラボ（FMRL）」を中心に翻訳チームが字幕を</font><font size="3" face="Arial">付けているという。夏には上映会が予定され、ウェブ上でも見られるようになるはずなので、日本版で見たい人はあと</font><font size="3" face="Arial">しばらく待っていてほしい。<br /></font></p><p><font size="3" face="Arial">『グッドコピー・バッドコピー』ＨＰ<br />http://www.goodcopybadcopy.net/<br />フリーメディア・リサーチラボＨＰ<br />http://freemedia.researchlab.jp/about/</font></p><p><font face="Arial"></font>&nbsp;</p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/UChcn139H4c" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>タケシ編集部</dc:creator>
    <dc:date>2010-05-24T16:00:00+09:00</dc:date>
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    <title>七尾旅人と「DIY STARS」の試み：ミュージシャンが直接音楽を発信する時代</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/O-_ze8ax2Ec/E20100510001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/f106e/100497822/145382_pcl.jpg" class="entryImage" />　音楽評論家の野田努が「今絶対見た方がいいよ」と会うたびに言うので、七尾旅人のライヴに行ってきました。私の研究室の学生であるＫ君が（おそらくは誰か女の子を誘うために）チケットを二枚ゲットしたというのを聞きつけたので、（無理やり）一枚買い取って行けることになったのです。<br /><br />　会場は、吉祥寺の弁天湯。ここは通常は銭湯として営業しているのですが、定休日を定期的に借りて「風呂ロック」というライヴ・イベントを行っています。銭湯というかつて社交場だった空間をライブハウスとして一時的に使うという試み自体、日本的な空間のスクォッティング（占拠）として理解できるかもしれません。<br /><br />　最近の七尾旅人は、メジャーレーベルから離れ、独自のスタンスで音楽活動を展開してきました。特に2007年に発表された三枚組ＣＤの問題作『911 FANTASIA』は、そのタイトルからわかるようにきわめてメッセージ性の強いものでした。ＣＤ三枚組というフォーマットだけを考えても既存のポピュラーミュージックの枠組みに収まらない新しい音楽の存在のあり方を示したものと言えるでしょう。<br /><br />　さて、弁天湯のライヴ。湯船の上を改造した特設ステージの周りに集まった客は、300人以上いたのではないでしょうか。脱衣場にも、浴場に入り切れなかった人がたくさん溢れていました。基本はアコースティックギターによる弾き語りで（後半はドリアンがサポートメンバーとして参加しました）、曲の合間に七尾旅人はＭＣで語り続けるのですが、そのＭＣ自体が歌の一部を構成しているようで、歌と語りの区別があいまいなまま全体が一つの長い楽曲のように進んでいきます。<br /><br />かつてヨーロッパには、各地を放浪しながら、その時々の社会問題や個人的な出来事を、詩に変えて歌った吟遊詩人がいましたが、今日「吟遊詩人」が可能だとしたら、七尾旅人のような人を指すのかもしれません。<br /><br />お客さんをステージに上げてラップをさせた「Rollin&rsquo; Rollin&rsquo;」や未発表の弾き語り曲もよかったけど、個人的には華原朋美の「I&rsquo;m Proud」やエルトン・ジョンの「僕の歌は君の歌（ユアソング）」を独自の解釈で歌い上げたカバーバージョンには正直言って度肝を抜かれました。原曲になじみがあるだけに、余計にシンガーとしての凄みを感じさせるものでした。<br /><br />　ところで、今日の本題はこのライヴではなくて、このライヴで七尾旅人が発表した新しい音楽配信システム、「DIY STARS」です。<br /><br />この日最後のサプライズとして七尾旅人はアルバム発売に先立って「検索少年」をホームページから配信することを発表しました。<br /><br />もちろん最近ではiTunes Storeなどもあるし、レディオヘッドやナイン・インチ・ネイルズなど、積極的にネット配信をしてきた例もあります。<br /><br />けれども、iTunes Storeなど大手にすべて任せてしまうと、レコード会社とレコードショップの音楽産業の支配が終わる代わりに、より巧妙な形でネットインフラを持つ巨大資本が音楽の流通を管理するようになる危険があります。その一方で、配信ビジネスをミュージシャンが全部個人で構築するのは技術的にも課金システムからみてもまだまだ大変な問題があります。<br />　<br />今回の「検索少年」のネット配信が面白いのは、七尾旅人が、これまで待ち受け画面の配信などを行ってきたTUNKと一緒に開発したDIY STARSという新しいシステムで、ミュージシャンがインデペンデントな形でこの楽曲を配信できるようにしたことにあります。この配信方法は、楽曲だけではなくZIP圧縮できるファイルであれば何でもデジタルコンテンツを、自由な価格設定で配信できるというものです。何よりもこのシステムによって、ミュージシャンが、より手軽に日常的にリスナーに近い形で音楽を提供できるという点が新しい試みだといえます。<br /><br />このDIY STARSには、七尾旅人のほかに、やけのはらやオオルタイチ、neco眠る、大伴良英、U-Zhaan、石橋英子といった個性的なミュージシャンたちが参加しています。今後の展開次第では一気に普及するかもしれません。<br /><br />七尾旅人がライヴでも言っていましたが、ミュージシャンがその日作った歌をギター片手に録音して、そのまますぐに配信するなんてことが、日常的に行われることもそう遠いことではないかもしれません。そもそもＣＤを作る際には、どのミュージシャンも膨大な曲を作り、同時に捨ててきたはずですから、そうした未発表曲にもこうした配信方法は有効でしょう。<br /><br />音楽には、本来多様なあり方があるはずです。ギターをつま弾きながら歌う鼻歌も音楽だろうし、お風呂でエコーを効かせつつがなってみる歌も音楽です。ＣＤやライヴといった形式は、そうした多様な時間的・空間的な制約の下で、音楽を一定の枠組みに閉じ込めてしまうものです。DIY STARSのような試みは、本来多様な音楽を、新しいデジタルテクノロジーによって再発見させるきっかけになってほしいと思います。<br /><br />七尾旅人ＨＰ：http://tavito.net/<br />DIY STARS: http://diy.tunk.jp/]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/f106e/100497822/145382_pcl.jpg" class="entryImage" />　音楽評論家の野田努が「今絶対見た方がいいよ」と会うたびに言うので、七尾旅人のライヴに行ってきました。私の研究室の学生であるＫ君が（おそらくは誰か女の子を誘うために）チケットを二枚ゲットしたというのを聞きつけたので、（無理やり）一枚買い取って行けることになったのです。<br /><br />　会場は、吉祥寺の弁天湯。ここは通常は銭湯として営業しているのですが、定休日を定期的に借りて「風呂ロック」というライヴ・イベントを行っています。銭湯というかつて社交場だった空間をライブハウスとして一時的に使うという試み自体、日本的な空間のスクォッティング（占拠）として理解できるかもしれません。<br /><br />　最近の七尾旅人は、メジャーレーベルから離れ、独自のスタンスで音楽活動を展開してきました。特に2007年に発表された三枚組ＣＤの問題作『911 FANTASIA』は、そのタイトルからわかるようにきわめてメッセージ性の強いものでした。ＣＤ三枚組というフォーマットだけを考えても既存のポピュラーミュージックの枠組みに収まらない新しい音楽の存在のあり方を示したものと言えるでしょう。<br /><br />　さて、弁天湯のライヴ。湯船の上を改造した特設ステージの周りに集まった客は、300人以上いたのではないでしょうか。脱衣場にも、浴場に入り切れなかった人がたくさん溢れていました。基本はアコースティックギターによる弾き語りで（後半はドリアンがサポートメンバーとして参加しました）、曲の合間に七尾旅人はＭＣで語り続けるのですが、そのＭＣ自体が歌の一部を構成しているようで、歌と語りの区別があいまいなまま全体が一つの長い楽曲のように進んでいきます。<br /><br />かつてヨーロッパには、各地を放浪しながら、その時々の社会問題や個人的な出来事を、詩に変えて歌った吟遊詩人がいましたが、今日「吟遊詩人」が可能だとしたら、七尾旅人のような人を指すのかもしれません。<br /><br />お客さんをステージに上げてラップをさせた「Rollin&rsquo; Rollin&rsquo;」や未発表の弾き語り曲もよかったけど、個人的には華原朋美の「I&rsquo;m Proud」やエルトン・ジョンの「僕の歌は君の歌（ユアソング）」を独自の解釈で歌い上げたカバーバージョンには正直言って度肝を抜かれました。原曲になじみがあるだけに、余計にシンガーとしての凄みを感じさせるものでした。<br /><br />　ところで、今日の本題はこのライヴではなくて、このライヴで七尾旅人が発表した新しい音楽配信システム、「DIY STARS」です。<br /><br />この日最後のサプライズとして七尾旅人はアルバム発売に先立って「検索少年」をホームページから配信することを発表しました。<br /><br />もちろん最近ではiTunes Storeなどもあるし、レディオヘッドやナイン・インチ・ネイルズなど、積極的にネット配信をしてきた例もあります。<br /><br />けれども、iTunes Storeなど大手にすべて任せてしまうと、レコード会社とレコードショップの音楽産業の支配が終わる代わりに、より巧妙な形でネットインフラを持つ巨大資本が音楽の流通を管理するようになる危険があります。その一方で、配信ビジネスをミュージシャンが全部個人で構築するのは技術的にも課金システムからみてもまだまだ大変な問題があります。<br />　<br />今回の「検索少年」のネット配信が面白いのは、七尾旅人が、これまで待ち受け画面の配信などを行ってきたTUNKと一緒に開発したDIY STARSという新しいシステムで、ミュージシャンがインデペンデントな形でこの楽曲を配信できるようにしたことにあります。この配信方法は、楽曲だけではなくZIP圧縮できるファイルであれば何でもデジタルコンテンツを、自由な価格設定で配信できるというものです。何よりもこのシステムによって、ミュージシャンが、より手軽に日常的にリスナーに近い形で音楽を提供できるという点が新しい試みだといえます。<br /><br />このDIY STARSには、七尾旅人のほかに、やけのはらやオオルタイチ、neco眠る、大伴良英、U-Zhaan、石橋英子といった個性的なミュージシャンたちが参加しています。今後の展開次第では一気に普及するかもしれません。<br /><br />七尾旅人がライヴでも言っていましたが、ミュージシャンがその日作った歌をギター片手に録音して、そのまますぐに配信するなんてことが、日常的に行われることもそう遠いことではないかもしれません。そもそもＣＤを作る際には、どのミュージシャンも膨大な曲を作り、同時に捨ててきたはずですから、そうした未発表曲にもこうした配信方法は有効でしょう。<br /><br />音楽には、本来多様なあり方があるはずです。ギターをつま弾きながら歌う鼻歌も音楽だろうし、お風呂でエコーを効かせつつがなってみる歌も音楽です。ＣＤやライヴといった形式は、そうした多様な時間的・空間的な制約の下で、音楽を一定の枠組みに閉じ込めてしまうものです。DIY STARSのような試みは、本来多様な音楽を、新しいデジタルテクノロジーによって再発見させるきっかけになってほしいと思います。<br /><br />七尾旅人ＨＰ：http://tavito.net/<br />DIY STARS: http://diy.tunk.jp/<img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/O-_ze8ax2Ec" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2010-05-10T16:30:00+09:00</dc:date>
  <feedburner:origLink>http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100510001.html</feedburner:origLink></item>
  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100419001.html">
    <title>恊働的な映像制作と発信へ：『RiP! リミックス宣言』と「ドネルモ　RiP!　プロジェクト」</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/fG9mSS5MxI4/E20100419001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/d7e26/100497822/138728_pcl.jpg" class="entryImage" />　昨年の山形国際ドキュメンタリー映画際で紹介されたブレット・ゲイラー監督の『RiP! リミックス宣言』は、デジタル技術の発展とインターネットの普及によって大きく変化しつつある著作権のあり方について一石を投じた作品でした。<br /><br />　この作品の根底にあるのは、アメリカの法学者ローレンス・レッシグの提唱する「クリエイティヴ・コモンズ（CC）」です。CCは、無制限に拡大しがちな著作権の主張に一定の制限をかけることによって、既存の文化生産物を「コモンズ（共有物）」として扱い、アーティストやミュージシャンなど制作者の創造性を確保していこうというプロジェクトです。<br /><br />　こうした議論を元に、既存の音源をズタズタにしながら過激にリミックスして先鋭的なダンスミュージックを作り続けているガール・トークや、過去の映画や映像をリミックスしてパロディ映像を作るMADムービーを紹介しつつ、その新しい倫理と美学を支持しようとする『RiP』は、山形でも賛否両論を引き起こしました。特にネット上で作品を公開して、その改変を推奨するのは、既存の映画監督や映像作家の著作権を侵害するものとして、映画監督の金子修介が、ゲストとして招かれたゲイラーと激論を交わしたことが伝えられています。<br /><br />　けれども、私には、金子監督の反論はやや過剰反応にみえます。ゲイラーの主張は、反著作権運動の中でも比較的穏健なものです。映画や映像の著作権についても一切認めないというのではなく、一定の保証を与えつつ、著作権による過剰な制限を緩和しようというレッシグの主張に基づいたゲイラーの議論は、一足飛びにあらゆる著作権を廃棄しようというアナーキーな主張とは一線を画しているものです。<br /><br />　むしろ、『RiP』の大きな貢献は、新しい映像制作の環境をネットワーク状に生み出しつつあることです。このことは『RiP』自体が、ユーザーによって改変可能なコモンズとしてウェブ上にアップしていることによって可能になったことです。<br /><br />　その一つの興味深い例が、福岡を拠点とした文化系ウェブマガジン「ドネルモ」の「RiP!　プロジェクト」です。これは山形の映画祭とは別に、自分たちの手で翻訳プロジェクトを立ち上げて独自の字幕バージョンを付けて、上映会を行い、さらにはウェブで公開しようというプロジェクトです。<br />　<br />　翻訳には、１３人のボランティが参加し、それぞれがネット上で情報を交換しながら字幕を付けました。既に字幕付きバージョンは完成し、３月１４日には、福岡のKBCシネマで無料の上映会が開催されました。これにかかる経費の多くは入場料という形ではなく、募金によって賄われるようです。ネットでみられるようになる日も近そうです。<br /><br />　「RiP！」そのものは、４月１７日（土）にNHKのBShiのハイビジョン特集フロンティアで『リミックス戦争～著作権保護は誰のため』という番組として放送されることも決まっています。NHKがこうした映画を放送すること自体問題提起として歓迎すべきことですが、それ以上に、こうした主流テレビメディアと同じことが、これまで視聴者という枠に閉じ込められてきたようなユーザーのボランティアな実践によって可能になったことを、新しいテクノロジーとクリエイティヴィティのあり方として、積極的に私は評価したいと思います。<br /><br />　ふと気がつくと、私のまわりでもこうした試みは一般化しつつあるように見えます。Ustreamをはじめ映像発信の技術的な条件もすっかりと整いつつあります。今年は、映像制作という概念そのものが劇的に変化する年になりそうです。『RiP』とドネルモの試みはそうした変化を先取りする実験なのかもしれません。<br /><br />『RiP!　リミックス宣言』：http://www.ripremix.com/<br />『ドネルモ　RiP!　プロジェクト』http://donnerlemot.com/rip/about.html]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/d7e26/100497822/138728_pcl.jpg" class="entryImage" />　昨年の山形国際ドキュメンタリー映画際で紹介されたブレット・ゲイラー監督の『RiP! リミックス宣言』は、デジタル技術の発展とインターネットの普及によって大きく変化しつつある著作権のあり方について一石を投じた作品でした。<br /><br />　この作品の根底にあるのは、アメリカの法学者ローレンス・レッシグの提唱する「クリエイティヴ・コモンズ（CC）」です。CCは、無制限に拡大しがちな著作権の主張に一定の制限をかけることによって、既存の文化生産物を「コモンズ（共有物）」として扱い、アーティストやミュージシャンなど制作者の創造性を確保していこうというプロジェクトです。<br /><br />　こうした議論を元に、既存の音源をズタズタにしながら過激にリミックスして先鋭的なダンスミュージックを作り続けているガール・トークや、過去の映画や映像をリミックスしてパロディ映像を作るMADムービーを紹介しつつ、その新しい倫理と美学を支持しようとする『RiP』は、山形でも賛否両論を引き起こしました。特にネット上で作品を公開して、その改変を推奨するのは、既存の映画監督や映像作家の著作権を侵害するものとして、映画監督の金子修介が、ゲストとして招かれたゲイラーと激論を交わしたことが伝えられています。<br /><br />　けれども、私には、金子監督の反論はやや過剰反応にみえます。ゲイラーの主張は、反著作権運動の中でも比較的穏健なものです。映画や映像の著作権についても一切認めないというのではなく、一定の保証を与えつつ、著作権による過剰な制限を緩和しようというレッシグの主張に基づいたゲイラーの議論は、一足飛びにあらゆる著作権を廃棄しようというアナーキーな主張とは一線を画しているものです。<br /><br />　むしろ、『RiP』の大きな貢献は、新しい映像制作の環境をネットワーク状に生み出しつつあることです。このことは『RiP』自体が、ユーザーによって改変可能なコモンズとしてウェブ上にアップしていることによって可能になったことです。<br /><br />　その一つの興味深い例が、福岡を拠点とした文化系ウェブマガジン「ドネルモ」の「RiP!　プロジェクト」です。これは山形の映画祭とは別に、自分たちの手で翻訳プロジェクトを立ち上げて独自の字幕バージョンを付けて、上映会を行い、さらにはウェブで公開しようというプロジェクトです。<br />　<br />　翻訳には、１３人のボランティが参加し、それぞれがネット上で情報を交換しながら字幕を付けました。既に字幕付きバージョンは完成し、３月１４日には、福岡のKBCシネマで無料の上映会が開催されました。これにかかる経費の多くは入場料という形ではなく、募金によって賄われるようです。ネットでみられるようになる日も近そうです。<br /><br />　「RiP！」そのものは、４月１７日（土）にNHKのBShiのハイビジョン特集フロンティアで『リミックス戦争～著作権保護は誰のため』という番組として放送されることも決まっています。NHKがこうした映画を放送すること自体問題提起として歓迎すべきことですが、それ以上に、こうした主流テレビメディアと同じことが、これまで視聴者という枠に閉じ込められてきたようなユーザーのボランティアな実践によって可能になったことを、新しいテクノロジーとクリエイティヴィティのあり方として、積極的に私は評価したいと思います。<br /><br />　ふと気がつくと、私のまわりでもこうした試みは一般化しつつあるように見えます。Ustreamをはじめ映像発信の技術的な条件もすっかりと整いつつあります。今年は、映像制作という概念そのものが劇的に変化する年になりそうです。『RiP』とドネルモの試みはそうした変化を先取りする実験なのかもしれません。<br /><br />『RiP!　リミックス宣言』：http://www.ripremix.com/<br />『ドネルモ　RiP!　プロジェクト』http://donnerlemot.com/rip/about.html<img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/fG9mSS5MxI4" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2010-04-19T16:00:00+09:00</dc:date>
  <feedburner:origLink>http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100419001.html</feedburner:origLink></item>
  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100323001.html">
    <title>「抵抗」から「自律」へ：「０円ショップ」の衝撃と過激さ</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/g2oQgKepFdQ/E20100323001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/1ea7a/100497822/129629_pcl.jpg" class="entryImage" />この連載で何度も紹介してきた高円寺のリサイクルショップ「素人の乱」ですが、オープンしてから5年近くが過ぎ、いろいろと変化が見られるようです。<br /><br />「素人の乱」といえば、店長の松本哉さんのキャラクターと、荒唐無稽なお祭り騒ぎの政治デモで話題になってきました。こうした高円寺の動向は、すでに何冊も本になって出版されていますし、私自身も折に触れ、紹介してきました。こうしたブーム――というほどでもないのですが――を経て、今は一段落ついている状況と言えるかもしれません。<br /><br />けれどもその頃から私が面白いと思っていたのは、話題になった一回限りの祝祭的イベントではなく、むしろ毎日繰り広げられている高円寺の生活のあり方でした。景気の低迷が続き、格差社会が議論される中で、自分たち自身で仕事を作り出し、生活空間を形成し、自ら遊ぶ場所を作る循環型の新しいDIY的経済が高円寺周辺の面白さだったのです。<br /><br />こうした日常的な面白さの中で、2010年代に入って、また一つ一歩踏み出た展開が起こっているように思えます。<br /><br />それは、「素人の乱」の古着店シランプリの店長であり、最近ではアートとエンターテインメントの混ざった独自のパフォーマンスをしたり、小説を書いたりと、その多才さを最近になって発揮している山下陽光さんの言葉を借りれば、素人の乱の「第二期」ということかもしれません。<br /><br />山下さんがアーティストの久恒亜由美（ひさつねあゆみ）さんと一緒に企画した展覧会「ＳＥＸＥＳ ～裏モノJAPANをひっくり返す～」は、個人的に今年最初のヒットでした。<br /><br />これは、「裏モノJAPAN」という雑誌の、客を装った編集者が店員をモノにするという企画「拝啓美人店員様」の中で、たまたまターゲットになった久恒さんが、山下さん経由で、自分がターゲットになっていることに気が付き、逆に「裏モノJAPAN」の編集者をひっかける様子をドキュメンタリー風につづったものです。ブログで報告されるその刻々と変わる状況は異様な緊迫感があり、最後に温かく編集者を高円寺に迎える様子は一種「感動的な」フィナーレでした。<br /><br />こうした展覧会の傍らに、山下さんが最近まで行ったプロジェクトに「０円ショップ」というのがあります。「１００円ショップ」はいたるところにありますが、その上を行く「０円ショップ」にシランプリをしようというものです。実際に、その期間中シランプリの古着は無料で希望者に渡されていました（数量制限はあります）。その一方で多くの人がいらなくなった古着を持ち込まれたので、ある種の物々交換が行われたのでした。<br /><br />こうした行為は、ただ面白いパフォーマンスであることを越えて、今の行き過ぎた資本主義に対する批評として見ることができます。「１００円ショップ」は、確かに安くて便利ですが、やはり同時にグローバル化した資本主義の一つの極端な帰結です。それは、グローバルに広がった労働分業と、それに基づいた途上国の低賃金労働によって成立している産業なのです。<br /><br />古着店産業も、ここにきて激安ショップが参入し、どこも経営が難しくなりつつあります。こうしたハイパーデフレの状況下で、そもそも商品の「価値」や「価格」という概念が問題含みの概念になりつつあります。<br /><br />「０円ショップ」というアイデアは、その問題をクリアに描き出しています。物質的な商品や労働力が限りなくゼロに近いものとみなされ始めている現代社会において、価値はどこに生じるのか。山下さんによれば、住むための家賃さえ確保できれば、食事やそのほかモロモロはまわりに人がいれば（カンパなども含めて）なんとかなるんじゃないか、と言うことのようです。それは、贈与経済の創造であり、新しい社会実験と呼べるかもしれません。<br /><br />2010年代の社会運動は、これまでの、国家や権力に対する「反対」「アンチ」を訴えるのではなく、むしろ国家や権力と自らをいったん切り離したとところで、自分たちの「自律」した空間を確保する、という方向に向かいつつあります。これまでリサイクルショップを中心とした「素人の乱」は、その可能性を開拓してきました。「０円ショップ」という思考は、その延長線上にありながら、それを転覆させる可能性があるように思えます。<br /><br />もちろん、実際の世界ではいまだに新自由主義的・後期資本主義が増殖を続けており、「ゼロ円ショップ」が簡単に定着するのはむずかしいかもしれません。けれども、一つの実践的な思考実験としてそのラディカルさを真面目に検討することは決して無駄ではないでしょう。まだまだ高円寺からは目が離せないようです。<br /><br />ひさつねあゆみさんのBlog<br />http://blog.hisatsuneayumi.com/?eid=1461572<br />シランプリ<br />http://trio4.nobody.jp/keita/shop/10/10_shiranprix.html]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/1ea7a/100497822/129629_pcl.jpg" class="entryImage" />この連載で何度も紹介してきた高円寺のリサイクルショップ「素人の乱」ですが、オープンしてから5年近くが過ぎ、いろいろと変化が見られるようです。<br /><br />「素人の乱」といえば、店長の松本哉さんのキャラクターと、荒唐無稽なお祭り騒ぎの政治デモで話題になってきました。こうした高円寺の動向は、すでに何冊も本になって出版されていますし、私自身も折に触れ、紹介してきました。こうしたブーム――というほどでもないのですが――を経て、今は一段落ついている状況と言えるかもしれません。<br /><br />けれどもその頃から私が面白いと思っていたのは、話題になった一回限りの祝祭的イベントではなく、むしろ毎日繰り広げられている高円寺の生活のあり方でした。景気の低迷が続き、格差社会が議論される中で、自分たち自身で仕事を作り出し、生活空間を形成し、自ら遊ぶ場所を作る循環型の新しいDIY的経済が高円寺周辺の面白さだったのです。<br /><br />こうした日常的な面白さの中で、2010年代に入って、また一つ一歩踏み出た展開が起こっているように思えます。<br /><br />それは、「素人の乱」の古着店シランプリの店長であり、最近ではアートとエンターテインメントの混ざった独自のパフォーマンスをしたり、小説を書いたりと、その多才さを最近になって発揮している山下陽光さんの言葉を借りれば、素人の乱の「第二期」ということかもしれません。<br /><br />山下さんがアーティストの久恒亜由美（ひさつねあゆみ）さんと一緒に企画した展覧会「ＳＥＸＥＳ ～裏モノJAPANをひっくり返す～」は、個人的に今年最初のヒットでした。<br /><br />これは、「裏モノJAPAN」という雑誌の、客を装った編集者が店員をモノにするという企画「拝啓美人店員様」の中で、たまたまターゲットになった久恒さんが、山下さん経由で、自分がターゲットになっていることに気が付き、逆に「裏モノJAPAN」の編集者をひっかける様子をドキュメンタリー風につづったものです。ブログで報告されるその刻々と変わる状況は異様な緊迫感があり、最後に温かく編集者を高円寺に迎える様子は一種「感動的な」フィナーレでした。<br /><br />こうした展覧会の傍らに、山下さんが最近まで行ったプロジェクトに「０円ショップ」というのがあります。「１００円ショップ」はいたるところにありますが、その上を行く「０円ショップ」にシランプリをしようというものです。実際に、その期間中シランプリの古着は無料で希望者に渡されていました（数量制限はあります）。その一方で多くの人がいらなくなった古着を持ち込まれたので、ある種の物々交換が行われたのでした。<br /><br />こうした行為は、ただ面白いパフォーマンスであることを越えて、今の行き過ぎた資本主義に対する批評として見ることができます。「１００円ショップ」は、確かに安くて便利ですが、やはり同時にグローバル化した資本主義の一つの極端な帰結です。それは、グローバルに広がった労働分業と、それに基づいた途上国の低賃金労働によって成立している産業なのです。<br /><br />古着店産業も、ここにきて激安ショップが参入し、どこも経営が難しくなりつつあります。こうしたハイパーデフレの状況下で、そもそも商品の「価値」や「価格」という概念が問題含みの概念になりつつあります。<br /><br />「０円ショップ」というアイデアは、その問題をクリアに描き出しています。物質的な商品や労働力が限りなくゼロに近いものとみなされ始めている現代社会において、価値はどこに生じるのか。山下さんによれば、住むための家賃さえ確保できれば、食事やそのほかモロモロはまわりに人がいれば（カンパなども含めて）なんとかなるんじゃないか、と言うことのようです。それは、贈与経済の創造であり、新しい社会実験と呼べるかもしれません。<br /><br />2010年代の社会運動は、これまでの、国家や権力に対する「反対」「アンチ」を訴えるのではなく、むしろ国家や権力と自らをいったん切り離したとところで、自分たちの「自律」した空間を確保する、という方向に向かいつつあります。これまでリサイクルショップを中心とした「素人の乱」は、その可能性を開拓してきました。「０円ショップ」という思考は、その延長線上にありながら、それを転覆させる可能性があるように思えます。<br /><br />もちろん、実際の世界ではいまだに新自由主義的・後期資本主義が増殖を続けており、「ゼロ円ショップ」が簡単に定着するのはむずかしいかもしれません。けれども、一つの実践的な思考実験としてそのラディカルさを真面目に検討することは決して無駄ではないでしょう。まだまだ高円寺からは目が離せないようです。<br /><br />ひさつねあゆみさんのBlog<br />http://blog.hisatsuneayumi.com/?eid=1461572<br />シランプリ<br />http://trio4.nobody.jp/keita/shop/10/10_shiranprix.html<img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/g2oQgKepFdQ" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2010-03-23T11:34:00+09:00</dc:date>
  <feedburner:origLink>http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100323001.html</feedburner:origLink></item>
  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100308001.html">
    <title>F**k GOOGLE? 　F.A.T LabはGoogleに勝つことができるか？</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/fpdC0Sxksfs/E20100308001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/0c88b/100497822/124617_pcl.jpg" class="entryImage" /><br />前回、Googleのアーカイヴプロジェクトについて書きました。確かにGoogleは便利なサービスを提供しているのですが、世界をすべてネット空間に取り込んで、収集・整理しようというGoogleの「野望」に対しては、なんともいえない潜在的な不安を覚える人も少なくないようです。<br /><br />特に街角の写真画像を地図とともに再構成する「ストリートビュー」は、肖像権やプライバシーの保護という観点から、その問題点がたびたび指摘されてきました。今年の2月10日には、日本弁護士連合会（日弁連）は、プライバシーを侵害した業者に是正勧告できる独立した第三者機関を設置し、公共の場所での撮影についてプライバシー保護の必要性と社会的有用性を事前に検討する仕組みを求める意見書を提出しています（朝日新聞2月10日）。<br /><br />興味深いのは、一件世界標準に見えるこうしたGoogleの事業が、細かい部分では国や地域の実情に合わせて展開されていることです。2009年5月13日付のIT mediaによれば、日本のGoogleのストリートビューの撮影カメラは、他の国では2m45cmの高さがあるのに対して、それよりも40cm低い2m5cmの高さに設置されているそうです。海外と違って建物の壁が低く、プライバシーの配慮が求められる日本独自の状況を配慮してのことでしょう。<br /><br />ところで、世界中の都市部の道路をすべて撮影しつつあるようにみえるGoogleストリートビューですが、その撮影現場を見た人はどのくらいいるのでしょうか。あまり話題になっていないとことを見ると、ほとんどいないようです。2m5cmのカメラを設置した自動車が走りまわっていたとしたら結構目立つでしょうから、これは不思議なことかもしれません。<br /><br />このGoogleストリートビューカメラの搭載車が今年の２月の頭にベルリンで多く目撃されました。といっても、ホンモノではありません。F.A.T Lab（Free Art &amp; Technology Lab）と呼ばれるアーティストユニットによるニセモノのストリートビューカーによる一種のストリートパフォーマンスです。<br /><br />F.A.Tは、先日横浜国際映像祭の際にも来日していたグラフィティ・リサーチ・ラボ（GRL）のエヴァン・ロスとジェームズ・パウダリーが中心となって作られたネットワーク上の研究機関です（日本にも支部があって、私も一応メンバーに入っています）。GRLは主としてグラフィティを中心に活動していましたが、よりオープンソースやフリーメディアに特化したアートプロジェクトを進めているのがこのF.A.Tです。<br /><br />FUCK GOOGLEと題されたこのプロジェクトは、ベルリンで開催されていた「トランスメディア・フェスティヴァル」の中の作品のひとつでした。それは、車のドアにGoogleのロゴを付け、２m45cmの高さにカメラを設置したニセモノのストリートビューカメラの搭載車を作り、その走り回る様子を撮影しようというものです。<br /><br />F.A.Tのホームページでは、このGoogleストリートビューカーの作成マニュアル（？）も図解入りで公開しています。世界中でニセモノのGoogleストリートビューカーが走り回tっているのを想像すると面白くありませんか。<br /><br />もちろんあくまでもこれはアートプロジェクトであって、他愛もない「イタズラ」に見えなくもありません。けれども、やはりこのプロジェクトはGoogleが公共的な機関ではなく、あくまでも一民間企業にすぎないという問題を鋭く指摘しています。それは、一見透明で中立的な存在に見えるGoogleを視覚化しようとする試みなのです。<br /><br />もしこうしたF.A.Tの行為が犯罪的に見えるとしたら、それはどういうことなのでしょうか。私たちは、情報の公共性ということをもっと真剣に考える必要がありそうです。<br /><br /><br />ITmedia関連記事： Googleストリートビュー、カメラ位置を40センチ下げる　日本独自のプライバシー対策<br />http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/13/news073.html<br /><br />F.A.T LabによるFuck Googleプロジェクト<br />http://fffff.at/tag/fuckgoogle/]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/0c88b/100497822/124617_pcl.jpg" class="entryImage" /><br />前回、Googleのアーカイヴプロジェクトについて書きました。確かにGoogleは便利なサービスを提供しているのですが、世界をすべてネット空間に取り込んで、収集・整理しようというGoogleの「野望」に対しては、なんともいえない潜在的な不安を覚える人も少なくないようです。<br /><br />特に街角の写真画像を地図とともに再構成する「ストリートビュー」は、肖像権やプライバシーの保護という観点から、その問題点がたびたび指摘されてきました。今年の2月10日には、日本弁護士連合会（日弁連）は、プライバシーを侵害した業者に是正勧告できる独立した第三者機関を設置し、公共の場所での撮影についてプライバシー保護の必要性と社会的有用性を事前に検討する仕組みを求める意見書を提出しています（朝日新聞2月10日）。<br /><br />興味深いのは、一件世界標準に見えるこうしたGoogleの事業が、細かい部分では国や地域の実情に合わせて展開されていることです。2009年5月13日付のIT mediaによれば、日本のGoogleのストリートビューの撮影カメラは、他の国では2m45cmの高さがあるのに対して、それよりも40cm低い2m5cmの高さに設置されているそうです。海外と違って建物の壁が低く、プライバシーの配慮が求められる日本独自の状況を配慮してのことでしょう。<br /><br />ところで、世界中の都市部の道路をすべて撮影しつつあるようにみえるGoogleストリートビューですが、その撮影現場を見た人はどのくらいいるのでしょうか。あまり話題になっていないとことを見ると、ほとんどいないようです。2m5cmのカメラを設置した自動車が走りまわっていたとしたら結構目立つでしょうから、これは不思議なことかもしれません。<br /><br />このGoogleストリートビューカメラの搭載車が今年の２月の頭にベルリンで多く目撃されました。といっても、ホンモノではありません。F.A.T Lab（Free Art &amp; Technology Lab）と呼ばれるアーティストユニットによるニセモノのストリートビューカーによる一種のストリートパフォーマンスです。<br /><br />F.A.Tは、先日横浜国際映像祭の際にも来日していたグラフィティ・リサーチ・ラボ（GRL）のエヴァン・ロスとジェームズ・パウダリーが中心となって作られたネットワーク上の研究機関です（日本にも支部があって、私も一応メンバーに入っています）。GRLは主としてグラフィティを中心に活動していましたが、よりオープンソースやフリーメディアに特化したアートプロジェクトを進めているのがこのF.A.Tです。<br /><br />FUCK GOOGLEと題されたこのプロジェクトは、ベルリンで開催されていた「トランスメディア・フェスティヴァル」の中の作品のひとつでした。それは、車のドアにGoogleのロゴを付け、２m45cmの高さにカメラを設置したニセモノのストリートビューカメラの搭載車を作り、その走り回る様子を撮影しようというものです。<br /><br />F.A.Tのホームページでは、このGoogleストリートビューカーの作成マニュアル（？）も図解入りで公開しています。世界中でニセモノのGoogleストリートビューカーが走り回tっているのを想像すると面白くありませんか。<br /><br />もちろんあくまでもこれはアートプロジェクトであって、他愛もない「イタズラ」に見えなくもありません。けれども、やはりこのプロジェクトはGoogleが公共的な機関ではなく、あくまでも一民間企業にすぎないという問題を鋭く指摘しています。それは、一見透明で中立的な存在に見えるGoogleを視覚化しようとする試みなのです。<br /><br />もしこうしたF.A.Tの行為が犯罪的に見えるとしたら、それはどういうことなのでしょうか。私たちは、情報の公共性ということをもっと真剣に考える必要がありそうです。<br /><br /><br />ITmedia関連記事： Googleストリートビュー、カメラ位置を40センチ下げる　日本独自のプライバシー対策<br />http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/13/news073.html<br /><br />F.A.T LabによるFuck Googleプロジェクト<br />http://fffff.at/tag/fuckgoogle/<img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/fpdC0Sxksfs" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2010-03-08T16:43:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100222002.html">
    <title>世界は「グーグル化」するのか？</title>
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    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/40370/100497822/120048_pcl.jpg" class="entryImage" />      <link href="file://localhost/Users/hashimoto/Library/Caches/TemporaryItems/msoclip1/01/clip_filelist.xml" rel="File-List"/> <!--[if gte mso 9]><xml> <o:DocumentProperties>  <o:Template>Normal</o:Template>  <o:Revision>0</o:Revision>  <o:TotalTime>0</o:TotalTime>  <o:Pages>1</o:Pages>  <o:Words>292</o:Words>  <o:Characters>1670</o:Characters>  <o:Lines>13</o:Lines>  <o:Paragraphs>3</o:Paragraphs>  <o:CharactersWithSpaces>2050</o:CharactersWithSpaces>  <o:Version>11.1025</o:Version> </o:DocumentProperties> <o:OfficeDocumentSettings>  <o:AllowPNG /> </o:OfficeDocumentSettings></xml><![endif]--><!--[if gte mso 9]><xml> <w:WordDocument>  <w:Zoom>0</w:Zoom>  <w:DoNotShowRevisions />  <w:DoNotPrintRevisions />  <w:PunctuationKerning />  <w:DrawingGridVerticalSpacing>10 pt</w:DrawingGridVerticalSpacing>  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/>こうした認識の中で、フランスやドイツなどヨーロッパ各国では、書籍のデータベース化のプロジェクトが始まっています。残念ながら日本では、そうした文化的公共財に対する意識が低いのでまだ本格化していません。周回遅れの民営化路線を続けている日本では、グーグルがやってくれるならそれでもいいのではないか、という議論が出るかもしれません。<br /><br />このように考えると、最近メディアで話題になった中国政府とグーグルとの論争（中国政府がグーグルに対してサイバー攻撃をしかけたかどうかという議論）も違った視点で見ることができます。それは究極的には情報を管理する権利はだれが持つのかという議論でもあるのです。サイバー攻撃それ自体は（本当にあったとしたら）、民主国家として適切な対応とは思えませんが、それでも、すべての国家を代弁する超国家的な組織が今のところ存在しない以上、国家は、少なくとも情報管理の主体となる可能性のある有力な組織なのです。それを民間企業に委託するとなると、そのための議論は尽くすべきでしょう。<br /><br />グーグル問題は、すべてグーグルという企業に還元されるわけではありません。仮にグーグルの野望が成就しなくても、技術革新は、第二、第三のグーグルを生みだし続けるでしょう。これについて考える時期が来ているようです。<br /><br />この問題、もう少し続けて考えたいと思います。<br /><br />※1月26日に、日本学術会議でこうした問題を扱ったシンポジウム「世界のグーグル化とメディア文化財の公共的保存・活用」が開催されました。私自身企画運営に関わったのですが、今後こうした議論はメディア産業やアカデミズムの中でも活発化していくと考えられます。<br /><br />日本学術会議<br />http://www.scj.go.jp/<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span>  <!--EndFragment-->]]></description>
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/>特にダウンロードするコストが、無料か、それに近いものになれば、これまで情報のアクセスが難しかった人たちも人類の知的財産を簡単に扱えるようになるでしょう。すでに絶版になって入手が難しくなっている本が、デジタル化されて読めるようになる、なんてこともあるかもしれません。<br /><br />けれども、その一方で問題もあります。少なくともこれまで出版文化を支えてきた多くの出版社や書店は、大きな影響を被るでしょう。出版産業全体が壊滅的なダメージを受けることは確実です。<br /><br />そうしたこともあって、日本の出版産業も早くからGoogleブックスに対しては危惧を表明してきました。昨年修整和解案が出されて、とりあえず日本の出版物についてはプロジェクトから除外されるということで、日本の出版界は一息ついたところですが、アマゾンなどまた別の企業が隣接した電子出版プロジェクトをすでに始めているので、遅かれ早かれ再びこの問題は議論になるでしょう。<br /><br />またデジタル化が、本当に書籍の保全のために最適なのかどうか、という問題もあります。書籍は、単なる文字情報ではなく、紙質や活字の種類や、挿絵や綴じ方まで含めた総合的なプロダクトです。ハイパーテキストなんて概念が生まれる前から、十分にハイパーテキスト的なメディアでした。読書とは何よりも身体的な体験だったのです。<br /><br />紙とインクというメディアが1000年以上もの歴史に耐えてきたことは証明されていることから、デジタルメディアがどれほど発達しても、やはり保存媒体としての書籍がなくなるとは思えません（デジタルデータのメンテナンスは結果的に高コストだという研究もあるようです）。<br /><br />そして、最大の問題は、書籍という人類の知的財産の総体の管理や保存をグーグルという一民間企業に任せるべきかどうかということにあります。むしろこうした公共財は、国家をはじめとする公的な機関が予算を投じて保存するべきものではないか。こうした議論があります。<br /><br 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    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2010-02-22T16:30:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100208001.html">
    <title>vol.46　ミュージシャンって何する人なんだろう？</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/A8p3o9WEf_Y/E20100208001.html</link>
    <description><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/429e1/100644580/116123_pcl.jpg" class="entryImage" /><link href="file:///C:\Users\takizawa\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_filelist.xml" rel="File-List"/><!--[if gte mso 9]><xml> <w:WordDocument>  <w:View>Normal</w:View>  <w:Zoom>0</w:Zoom>  <w:PunctuationKerning />  <w:DisplayHorizontalDrawingGridEvery>0</w:DisplayHorizontalDrawingGridEvery>  <w:DisplayVerticalDrawingGridEvery>2</w:DisplayVerticalDrawingGridEvery>  <w:ValidateAgainstSchemas />  <w:SaveIfXMLInvalid>false</w:SaveIfXMLInvalid>  <w:IgnoreMixedContent>false</w:IgnoreMixedContent>  <w:AlwaysShowPlaceholderText>false</w:AlwaysShowPlaceholderText>  <w:Compatibility>   <w:SpaceForUL />   <w:BalanceSingleByteDoubleByteWidth />   <w:DoNotLeaveBackslashAlone />   <w:ULTrailSpace />   <w:DoNotExpandShiftReturn />   <w:AdjustLineHeightInTable />   <w:BreakWrappedTables />   <w:SnapToGridInCell />   <w:WrapTextWithPunct 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lang="EN-US">TDK</span>（ドラム）のスリーピースのバンドです。<span lang="EN-US">2003</span>年にリリースされた１<span lang="EN-US">st</span>アルバムがジョン・ゾーンの<span lang="EN-US">TZADIK</span>というレーベルからだったということから、音楽が好きな人ならある程度、音を想像することができるかもしれません。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">ひたすら強力なリズムを叩きつけるローファイな演奏は、パンクといえばパンクなのですが、<span lang="EN-US">Yukari</span>の高音のヴォーカルは、パンキッシュな音にポップな魅力を付け加えています。リズムもただ強烈なだけではなくめまぐるしく変化して、三人でやっているとは思えないほどアレンジも複雑で、<span lang="EN-US">2000</span>年代のオルタナティヴというのはこういう風に進化したのか、とあらためて認識しました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック="">Yukari</span><span style="" ゴシック="">の弾き語りで始まったライブは、二部の前に早くも<span lang="EN-US">Yukari</span>はギターを破壊するし、締めで<span lang="EN-US">JJ</span>ももう一度ギターぶっ壊して、暴力的でかっこいい。ニューエスト・モデルやキセルの曲をカバーするあたり、その音も含めて、日本の（というか関西の？）同時代のシーンに対するリスペクトと立ち位置がはっきりしていることに、共感しました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">ところで、今回の本題は、バンドの紹介ではありません（バンドのことも書きたいんですけどね）。<span lang="EN-US">Limited Express</span>のライブに行ったのは、<span lang="EN-US">1</span>月末に吉祥寺の古本屋「百年」で前回紹介した児玉雄大さんの司会で、<span lang="EN-US">Limited Express</span>の<span lang="EN-US">JJ</span>こと飯田仁一郎さんと鼎談をしたからでした。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">飯田さんは、なかなかの才人で、<span lang="EN-US">Limited Express</span>の活動以外に、京都大学の西部講堂で始まったイベント「ボロフェスタ」の主催者としても知られ、またインディーズの音楽配信・情報サイト<span lang="EN-US">OTOTOY</span>の運営も行っています。それ以外にも最近で廃校になった小学校や横浜の<span lang="EN-US">BankART</span>を会場に「リアル脱出ゲーム」の企画にも中心的なメンバーとして関わっています。<span lang="EN-US">BankART</span>で行われた「リアル東京ゲーム」は、なんと<span lang="EN-US">2600</span>人もの参加者を集めたというから、もはやちょっとしたムーブメントと言ってもいいかもしれません。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">飯田さんの活動を見ていると、今日そもそもミュージシャンとは何か、アーティストとは誰か、ということを考えさせられます。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">私たちは、音楽やアートを生活から切り離された独立したものとして楽しんでいるわけではありません。それは、私たちの生活の一部であり、日常的な営為と分かちがたく浸透してしまっています。それは、身体や日常生活を含みこんだ包括的な経験になっているのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">飯田さんの活動の面白さは、そうした総合的な文化の経験が、すべて手作りの、きわめてボトムアップ的で個人的な場所から作り出されているところです。けれども、このことは彼の活動が小さなサークルの中で閉じていることを意味しているわけではありません。音楽活動でいえば、積極的に海外ツアーを行い、世界的な水準でシーンの中を動きつつ、「リアル脱出ゲーム」のような場では、音楽とは別の場所で一つの世界観を提出する。その一方で、新しい音楽の視聴のあり方を目指して、イベントや配信サイトを立ち上げる。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">イベントや音楽サイトの運営や、エンターテインメント性の強いイベント企画などは、一見すると伝統的なミュージシャンの枠を越えているよう見えるかもしれません。けれども、逆にいえば、ポップスにおいて、過去の偉大なミュージシャンは、すべて音楽だけではなく、思想や哲学、ファッションやライフスタイルなど生活全般に影響を与えてきました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">ミュージシャンが狭い音楽の枠の中に留まるようになったのは、音楽が小さな<span lang="EN-US">CD</span>ディスクのなかに閉じ込められ巨大産業化した、この<span lang="EN-US">20</span>年程度の出来事にすぎないのです。<span lang="EN-US">2010</span>年代の文化のアクターを考える上で、飯田さんのような縦横無尽な活動は、先駆的なモデルを示しているように見えます。</span></p><p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt;">&nbsp;</p><p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">Limited Express (has gone?)HP<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; http://www.limited-ex.com/<br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 音楽配信・情報サイト　OTOTOY<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; http://ototoy.jp/music/</span><br /></p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/429e1/100644580/116123_pcl.jpg" class="entryImage" /><link href="file:///C:\Users\takizawa\AppData\Local\Temp\msohtml1\01\clip_filelist.xml" rel="File-List"/><!--[if gte mso 9]><xml> <w:WordDocument>  <w:View>Normal</w:View>  <w:Zoom>0</w:Zoom>  <w:PunctuationKerning />  <w:DisplayHorizontalDrawingGridEvery>0</w:DisplayHorizontalDrawingGridEvery>  <w:DisplayVerticalDrawingGridEvery>2</w:DisplayVerticalDrawingGridEvery>  <w:ValidateAgainstSchemas />  <w:SaveIfXMLInvalid>false</w:SaveIfXMLInvalid>  <w:IgnoreMixedContent>false</w:IgnoreMixedContent>  <w:AlwaysShowPlaceholderText>false</w:AlwaysShowPlaceholderText>  <w:Compatibility>   <w:SpaceForUL />   <w:BalanceSingleByteDoubleByteWidth />   <w:DoNotLeaveBackslashAlone />   <w:ULTrailSpace />   <w:DoNotExpandShiftReturn />   <w:AdjustLineHeightInTable />   <w:BreakWrappedTables />   <w:SnapToGridInCell />   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lang="EN-US">TDK</span>（ドラム）のスリーピースのバンドです。<span lang="EN-US">2003</span>年にリリースされた１<span lang="EN-US">st</span>アルバムがジョン・ゾーンの<span lang="EN-US">TZADIK</span>というレーベルからだったということから、音楽が好きな人ならある程度、音を想像することができるかもしれません。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">ひたすら強力なリズムを叩きつけるローファイな演奏は、パンクといえばパンクなのですが、<span lang="EN-US">Yukari</span>の高音のヴォーカルは、パンキッシュな音にポップな魅力を付け加えています。リズムもただ強烈なだけではなくめまぐるしく変化して、三人でやっているとは思えないほどアレンジも複雑で、<span lang="EN-US">2000</span>年代のオルタナティヴというのはこういう風に進化したのか、とあらためて認識しました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック="">Yukari</span><span style="" ゴシック="">の弾き語りで始まったライブは、二部の前に早くも<span lang="EN-US">Yukari</span>はギターを破壊するし、締めで<span lang="EN-US">JJ</span>ももう一度ギターぶっ壊して、暴力的でかっこいい。ニューエスト・モデルやキセルの曲をカバーするあたり、その音も含めて、日本の（というか関西の？）同時代のシーンに対するリスペクトと立ち位置がはっきりしていることに、共感しました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">ところで、今回の本題は、バンドの紹介ではありません（バンドのことも書きたいんですけどね）。<span lang="EN-US">Limited Express</span>のライブに行ったのは、<span lang="EN-US">1</span>月末に吉祥寺の古本屋「百年」で前回紹介した児玉雄大さんの司会で、<span lang="EN-US">Limited Express</span>の<span lang="EN-US">JJ</span>こと飯田仁一郎さんと鼎談をしたからでした。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">飯田さんは、なかなかの才人で、<span lang="EN-US">Limited 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ゴシック="">私たちは、音楽やアートを生活から切り離された独立したものとして楽しんでいるわけではありません。それは、私たちの生活の一部であり、日常的な営為と分かちがたく浸透してしまっています。それは、身体や日常生活を含みこんだ包括的な経験になっているのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">飯田さんの活動の面白さは、そうした総合的な文化の経験が、すべて手作りの、きわめてボトムアップ的で個人的な場所から作り出されているところです。けれども、このことは彼の活動が小さなサークルの中で閉じていることを意味しているわけではありません。音楽活動でいえば、積極的に海外ツアーを行い、世界的な水準でシーンの中を動きつつ、「リアル脱出ゲーム」のような場では、音楽とは別の場所で一つの世界観を提出する。その一方で、新しい音楽の視聴のあり方を目指して、イベントや配信サイトを立ち上げる。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">イベントや音楽サイトの運営や、エンターテインメント性の強いイベント企画などは、一見すると伝統的なミュージシャンの枠を越えているよう見えるかもしれません。けれども、逆にいえば、ポップスにおいて、過去の偉大なミュージシャンは、すべて音楽だけではなく、思想や哲学、ファッションやライフスタイルなど生活全般に影響を与えてきました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span lang="EN-US" style="" ゴシック=""><o:p>&nbsp;</o:p></span></p>  <p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">ミュージシャンが狭い音楽の枠の中に留まるようになったのは、音楽が小さな<span lang="EN-US">CD</span>ディスクのなかに閉じ込められ巨大産業化した、この<span lang="EN-US">20</span>年程度の出来事にすぎないのです。<span lang="EN-US">2010</span>年代の文化のアクターを考える上で、飯田さんのような縦横無尽な活動は、先駆的なモデルを示しているように見えます。</span></p><p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt;">&nbsp;</p><p style="text-indent: 10.5pt;" class="MsoNormal"><span style="" ゴシック="">Limited Express (has gone?)HP<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; http://www.limited-ex.com/<br /><br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 音楽配信・情報サイト　OTOTOY<br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; http://ototoy.jp/music/</span><br /></p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/A8p3o9WEf_Y" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2010-02-08T17:30:00+09:00</dc:date>
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    <title>vol.45　2010年代の文化へ向けて：「こだまや」と『Ｋ８』</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/-iqY2BWc2Tw/E20100125001.html</link>
    <description><![CDATA[<p>&nbsp;</p><p><font face="Arial"></font></p><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/9ab0e/100042224/112794_pcl.jpg" class="entryImage" /><p><font face="Arial">　明けましておめでとうございます。<br />　いやあ、2010年代ですね。この連載も始まってから今年で5年目を迎えます。ＤｉＹ文化をめぐる状況も始まったときからはずいぶんと変化しました。<br />その変化の中で、なにやらこの「はじめてのＤｉＹ」も不定期連載のようになってきていますが、今年の目標として、きちんと定期連載に戻していきたいと思っています。そのためにも、私自身の日常生活の中で面白かったものや気になったものを紹介したり、考えたりするという原点に戻ろうと決意を新たにしています。よろしくお願いします。</font></p><p><font face="Arial">この連載から生まれた『はじめてのＤｉＹ』（ブルース・インターアクションズ）と、その理論編ともいえる『ストリートの思想』（ＮＨKブックス）は、おかげさまで、これまで私が想定していた読者ではなかった、幅広い層の方に受け入れられてきました。温かい、好意的な書評やコメントもいただきましたが、どうしても取り上げている素材や事象もあり、議論が東京中心、あるいは都市中心ではないか、という批判も受けました。<br />私自身、実は90年代から2000年代を通じて、ロンドンと福岡にいた時期が長かったので、この点について自覚的ではあったのですが、確かにあらためて読み直すと、議論が都市中心になっていた側面があったことも否定できません。これからは、地方の文化がどうなるのか、無視して考えるわけにはいきません。このことを踏まえた上で2010年代の文化がどのようになっていくのか、を考えることが急務のようです。</font></p><p><font face="Arial">すでにいくつかの手がかりがあります。<br />千葉の長生郡というところで「こだまや」というカレー店をやっている児玉雄大さんという方がいます。児玉さんは、もともと都内で音楽関係の仕事をしていたのですが、昨年三月に長生郡に引っ越して、カレー店を始めました。カレー店といっても「インドカレーと絵本のお店」というキャッチコピーが付いている通り、児玉さんが選んだ絵本や小説、サブカルチャー系の本を数千冊揃えた一種の隠れ家的空間です。<br />児玉さんは、カレー店を運営する傍らで、『Ｋ８』というリトルプレスも発行しています。私自身児玉さんのことを知ったのは、『Ｋ８』のために萱野稔人さんと対談をしたことがきっかけでした。<br />『Ｋ８』は、政治的なテーマのほかに、元じゃがたらのＯＴＯさんをはじめインディーズシーンの重要なミュージシャンのインタビューを収めた雑誌で、文化やライフスタイルを通じて「政治」を考えている貴重な雑誌です。リトルプレス（同人誌）とはいえ、編集もデザインもプロフェッショナルで、通常の商業雑誌ではありえない、豪華な造りをしています。「こだまや」や『Ｋ８』はオルタナティヴな文化のライフスタイルを提案しているという点で、2010年代の展望を占う重要な試みと言えるでしょう。<br />その児玉さんが、最近提唱している概念に「フィールドの思想」というのがあります。「フィールド」というのは、文化人類学や社会学で用いられる概念ですが、都心から離れたところで、新しい自律した文化を作ろうというこうした試みは、私が「ストリートの思想」と呼んでいたものが、手を携えながら発展していく一つの方向性を示しているようにも感じられます。</font></p><p><font face="Arial">政権は変わりましたが、だからといって、今日の資本主義体制が抜本的に変わることはなく、依然として厳しい時代が続くことが予想されます。私自身、民主党政権に全く期待していないわけではありませんが、政府ができることは限定的で、結局のところ、残念ながら、私たちは自分たちの文化や生活を防衛する方法をなんとか探し出していくほかはありません。<br />「こだまや」や『Ｋ８』は、そうした防衛のひとつの試みに思えます。都市文化が、都会の喧騒から離れ、新しく始まった動向とどのように結びつくことができるのか。これは、2010年代をサバイヴするための中心的な課題になっていくでしょう。</font></p><p><font face="Arial">「こだまや」http://www.kodama8.com/<br />『Ｋ８』http://www.kodama8.com/k8</font><br /></p><p>&nbsp;</p>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<p>&nbsp;</p><p><font face="Arial"></font></p><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/profile/9ab0e/100042224/112794_pcl.jpg" class="entryImage" /><p><font face="Arial">　明けましておめでとうございます。<br />　いやあ、2010年代ですね。この連載も始まってから今年で5年目を迎えます。ＤｉＹ文化をめぐる状況も始まったときからはずいぶんと変化しました。<br />その変化の中で、なにやらこの「はじめてのＤｉＹ」も不定期連載のようになってきていますが、今年の目標として、きちんと定期連載に戻していきたいと思っています。そのためにも、私自身の日常生活の中で面白かったものや気になったものを紹介したり、考えたりするという原点に戻ろうと決意を新たにしています。よろしくお願いします。</font></p><p><font face="Arial">この連載から生まれた『はじめてのＤｉＹ』（ブルース・インターアクションズ）と、その理論編ともいえる『ストリートの思想』（ＮＨKブックス）は、おかげさまで、これまで私が想定していた読者ではなかった、幅広い層の方に受け入れられてきました。温かい、好意的な書評やコメントもいただきましたが、どうしても取り上げている素材や事象もあり、議論が東京中心、あるいは都市中心ではないか、という批判も受けました。<br />私自身、実は90年代から2000年代を通じて、ロンドンと福岡にいた時期が長かったので、この点について自覚的ではあったのですが、確かにあらためて読み直すと、議論が都市中心になっていた側面があったことも否定できません。これからは、地方の文化がどうなるのか、無視して考えるわけにはいきません。このことを踏まえた上で2010年代の文化がどのようになっていくのか、を考えることが急務のようです。</font></p><p><font face="Arial">すでにいくつかの手がかりがあります。<br />千葉の長生郡というところで「こだまや」というカレー店をやっている児玉雄大さんという方がいます。児玉さんは、もともと都内で音楽関係の仕事をしていたのですが、昨年三月に長生郡に引っ越して、カレー店を始めました。カレー店といっても「インドカレーと絵本のお店」というキャッチコピーが付いている通り、児玉さんが選んだ絵本や小説、サブカルチャー系の本を数千冊揃えた一種の隠れ家的空間です。<br />児玉さんは、カレー店を運営する傍らで、『Ｋ８』というリトルプレスも発行しています。私自身児玉さんのことを知ったのは、『Ｋ８』のために萱野稔人さんと対談をしたことがきっかけでした。<br />『Ｋ８』は、政治的なテーマのほかに、元じゃがたらのＯＴＯさんをはじめインディーズシーンの重要なミュージシャンのインタビューを収めた雑誌で、文化やライフスタイルを通じて「政治」を考えている貴重な雑誌です。リトルプレス（同人誌）とはいえ、編集もデザインもプロフェッショナルで、通常の商業雑誌ではありえない、豪華な造りをしています。「こだまや」や『Ｋ８』はオルタナティヴな文化のライフスタイルを提案しているという点で、2010年代の展望を占う重要な試みと言えるでしょう。<br />その児玉さんが、最近提唱している概念に「フィールドの思想」というのがあります。「フィールド」というのは、文化人類学や社会学で用いられる概念ですが、都心から離れたところで、新しい自律した文化を作ろうというこうした試みは、私が「ストリートの思想」と呼んでいたものが、手を携えながら発展していく一つの方向性を示しているようにも感じられます。</font></p><p><font face="Arial">政権は変わりましたが、だからといって、今日の資本主義体制が抜本的に変わることはなく、依然として厳しい時代が続くことが予想されます。私自身、民主党政権に全く期待していないわけではありませんが、政府ができることは限定的で、結局のところ、残念ながら、私たちは自分たちの文化や生活を防衛する方法をなんとか探し出していくほかはありません。<br />「こだまや」や『Ｋ８』は、そうした防衛のひとつの試みに思えます。都市文化が、都会の喧騒から離れ、新しく始まった動向とどのように結びつくことができるのか。これは、2010年代をサバイヴするための中心的な課題になっていくでしょう。</font></p><p><font face="Arial">「こだまや」http://www.kodama8.com/<br />『Ｋ８』http://www.kodama8.com/k8</font><br /></p><p>&nbsp;</p><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/-iqY2BWc2Tw" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2010-01-25T12:06:00+09:00</dc:date>
  <feedburner:origLink>http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20100125001.html</feedburner:origLink></item>
  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20091005001.html">
    <title>vol.44　ブリストルの「バンクシー現象」</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/57jO1DK0C1k/E20091005001.html</link>
    <description><![CDATA[<div style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/16dac/90029/76100_pcl.jpg" class="entryImage" /><br />　この夏、イギリス西部の港町ブリストルに行ってきました。この連載でも、何度か紹介したグラフィティライター、バンクシーの初めての本格的な個展を見るためです。会場は、ブリストル市立美術館・博物館。ブリストルは、バンクシーの出身地です。<br /><br /><br />　ブリストルという地名はロックファンには独特のニュアンスを含んでいます。90年代初頭に活動を始めたマッシヴ・アタックを筆頭に、ブリストルサウンドは、60年代のリバプールや80年代のマンチェスターと同様に多くのブリティッシュロック・ファンを捉えてきました。<br /><br /><br />　その特徴は70年代のパンク、ニューウェーヴからつながるノイジーでダークなサウンドですが、80年代にはアメリカのヒップホップを英国に導入する窓口の役割を果たしました。ワイルドバンチという音楽のユニットが有名ですね。バンクシーもまた、こうした音楽のシーンから生まれたアーティストでした。ブリストルの街を歩くと今でもバンクシーの初期のグラフィティを見ることができます。<br /><br /><br />　世界的なアーティストといってもグラフィティは、多くの場合「犯罪」とみなされているので、このように公立の美術館が主催して展覧会を行うなんていうのは異例といってもいいでしょう。<br /><br /><br />　会場について驚かされたのは、その長蛇の列です。入口から隣の道路までディズニーランドの人気ライドを思わせる列がびっしりと続いています。ブリストルには1時ころ到着したのですが、入場までに4時間半（！）もかかるというので、その日はあきらめて一度ホテルにチェックインすることにしました。その日入場できるかどうか保障できないというのです。受付によれば、10時開場の展覧会に早い人は朝5時から並んでいるそうです。<br /><br /><br />　その日はあきらめてブリストル観光をして、翌日半信半疑で朝7時半に行ったのですが、なんと昨日と変わらないような長い列！「げっ」と思いましたが、今回イギリスに行った最大の目的がこのバンクシー展だったので、諦めて泣く泣く並ぶことに。幸い週末ということもあり、開場を早めたので午前中には何とか入ることができたのですが、外に出ると待ち時間は6時間にまでなっていました。<br /><br /><br />　ほとんど「バンクシー現象」と言ってもいいかもしれません。あとで知ったのですが、バンクシー展の長蛇の列は、6月にはすでに話題になっていて、イギリスではテレビや新聞で大きな話題になっていたようです。知らないで行ったことについて、ロンドンに戻ってから友人に結構からかわれました。<br /><br /><br />　どうして、バンクシー展がこれほどの人を引き付けたのでしょう。<br /><br />　ひとつは、そのイギリス的なといってもいいブラックユーモアにあります。バンクシーの初期の作品に、大英博物館に勝手に展示した「ショッピングカートを押す古代人」なんていうのがありますが、これは、遺跡の発掘品本物そっくりのオブジェを作り、そこにスーパーマーケットのショッピングカートを押す人の絵を描いたものです。今回の展覧会でも、美術館や博物館がもともと収蔵していた作品や陳列品をパロディ化したり、落書きをしたり（もちろん偽物にですが）した作品が並んでいました。<br /><br /><br />　その一方で、そのラディカルな政治的なメッセージが若者を引き付けたということもあるでしょう。反戦やパレスチナ問題に対するその姿勢は、アートを政治に回収させることなく「かっこいい」表現を通じて示されていることに多くの共感が集まったことはまちがいありません。<br /><br /><br />　けれども、一番重要なのは、バンクシーが、地元ブリストルが生んだ国際的なスターだったということでしょう。グラフィティは犯罪だと言いました。実際に展覧会のパンフレットにも、美術館は犯罪行為を容認するものではないと書いています。でも、この小さな街でバンクシーがいったい誰なのか、少なからずの人が知っているはずです。でも知っていてもだれもそれを決して口にはしないのです。<br /><br /><br />　むしろ街の風景を見る限り、ブリストルの人たちは、バンクシーを誇りに思っているようです。商店街のディスプレイにはいたるところにバンクシーの絵が飾られ、あたかも街全体が今回の展覧会を祝福しているようです。グラフィティに対する寛容さそのものまでを、街は自慢しているようにも感じられます。このローカルな地元意識が、バンクシー展の空前の成功をもたらしたように思えます。<br /><br /><br /><span style="FONT-SIZE: 10.5pt">　ひるがえって、企業の均質な広告イメージが氾濫している日本の都市の風景を考えると、グラフィティは依然として「犯罪」の中に押し込められているようにみえます。この差を考えることは、都市と文化、そして地域性を理解する鍵になるかもしれません。</span></div>]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<div style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt"><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/16dac/90029/76100_pcl.jpg" class="entryImage" /><br />　この夏、イギリス西部の港町ブリストルに行ってきました。この連載でも、何度か紹介したグラフィティライター、バンクシーの初めての本格的な個展を見るためです。会場は、ブリストル市立美術館・博物館。ブリストルは、バンクシーの出身地です。<br /><br /><br />　ブリストルという地名はロックファンには独特のニュアンスを含んでいます。90年代初頭に活動を始めたマッシヴ・アタックを筆頭に、ブリストルサウンドは、60年代のリバプールや80年代のマンチェスターと同様に多くのブリティッシュロック・ファンを捉えてきました。<br /><br /><br />　その特徴は70年代のパンク、ニューウェーヴからつながるノイジーでダークなサウンドですが、80年代にはアメリカのヒップホップを英国に導入する窓口の役割を果たしました。ワイルドバンチという音楽のユニットが有名ですね。バンクシーもまた、こうした音楽のシーンから生まれたアーティストでした。ブリストルの街を歩くと今でもバンクシーの初期のグラフィティを見ることができます。<br /><br /><br />　世界的なアーティストといってもグラフィティは、多くの場合「犯罪」とみなされているので、このように公立の美術館が主催して展覧会を行うなんていうのは異例といってもいいでしょう。<br /><br /><br />　会場について驚かされたのは、その長蛇の列です。入口から隣の道路までディズニーランドの人気ライドを思わせる列がびっしりと続いています。ブリストルには1時ころ到着したのですが、入場までに4時間半（！）もかかるというので、その日はあきらめて一度ホテルにチェックインすることにしました。その日入場できるかどうか保障できないというのです。受付によれば、10時開場の展覧会に早い人は朝5時から並んでいるそうです。<br /><br /><br />　その日はあきらめてブリストル観光をして、翌日半信半疑で朝7時半に行ったのですが、なんと昨日と変わらないような長い列！「げっ」と思いましたが、今回イギリスに行った最大の目的がこのバンクシー展だったので、諦めて泣く泣く並ぶことに。幸い週末ということもあり、開場を早めたので午前中には何とか入ることができたのですが、外に出ると待ち時間は6時間にまでなっていました。<br /><br /><br />　ほとんど「バンクシー現象」と言ってもいいかもしれません。あとで知ったのですが、バンクシー展の長蛇の列は、6月にはすでに話題になっていて、イギリスではテレビや新聞で大きな話題になっていたようです。知らないで行ったことについて、ロンドンに戻ってから友人に結構からかわれました。<br /><br /><br />　どうして、バンクシー展がこれほどの人を引き付けたのでしょう。<br /><br />　ひとつは、そのイギリス的なといってもいいブラックユーモアにあります。バンクシーの初期の作品に、大英博物館に勝手に展示した「ショッピングカートを押す古代人」なんていうのがありますが、これは、遺跡の発掘品本物そっくりのオブジェを作り、そこにスーパーマーケットのショッピングカートを押す人の絵を描いたものです。今回の展覧会でも、美術館や博物館がもともと収蔵していた作品や陳列品をパロディ化したり、落書きをしたり（もちろん偽物にですが）した作品が並んでいました。<br /><br /><br />　その一方で、そのラディカルな政治的なメッセージが若者を引き付けたということもあるでしょう。反戦やパレスチナ問題に対するその姿勢は、アートを政治に回収させることなく「かっこいい」表現を通じて示されていることに多くの共感が集まったことはまちがいありません。<br /><br /><br />　けれども、一番重要なのは、バンクシーが、地元ブリストルが生んだ国際的なスターだったということでしょう。グラフィティは犯罪だと言いました。実際に展覧会のパンフレットにも、美術館は犯罪行為を容認するものではないと書いています。でも、この小さな街でバンクシーがいったい誰なのか、少なからずの人が知っているはずです。でも知っていてもだれもそれを決して口にはしないのです。<br /><br /><br />　むしろ街の風景を見る限り、ブリストルの人たちは、バンクシーを誇りに思っているようです。商店街のディスプレイにはいたるところにバンクシーの絵が飾られ、あたかも街全体が今回の展覧会を祝福しているようです。グラフィティに対する寛容さそのものまでを、街は自慢しているようにも感じられます。このローカルな地元意識が、バンクシー展の空前の成功をもたらしたように思えます。<br /><br /><br /><span style="FONT-SIZE: 10.5pt">　ひるがえって、企業の均質な広告イメージが氾濫している日本の都市の風景を考えると、グラフィティは依然として「犯罪」の中に押し込められているようにみえます。この差を考えることは、都市と文化、そして地域性を理解する鍵になるかもしれません。</span></div><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/57jO1DK0C1k" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2009-10-05T11:27:00+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20090824001.html">
    <title>vol.43　大地の芸術祭：アートは里山で何ができるのか？</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/qUDfhtn-Me8/E20090824001.html</link>
    <description><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/b1988/90029/70156_pcl.jpg" class="entryImage" />　さて、久しぶりの書き込みです。言い訳をすれば、このところ新しい本の執筆に追われてほかのことが全く止まってしまっていました。やっと出版されたので、もとのペースに戻れると思います。本の方もぜひ手にとってみてくださいね。<br><br>『ストリートの思想――転換期としての90年代』ＮＨＫブックス<br>
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4140911395/<br><br>
　さて、「大地の芸術祭：越後妻有トリエンナーレ2009」が始まりました。トリエンナーレとは三年に一度という意味。「大地の芸術祭」は、三年に一度、新潟県の越後妻有（十日町市、津南町）で開催される現代美術のお祭りです。東京23区より広い地域に370もの作品が点在する、日本最大のアートイヴェントと言ってもいいでしょう。<br>
大地の芸術祭：越後妻有トリエンナーレ2009<br>
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/index.html<br><br>
　今年は、私が職場の東京芸術大学が大学として関わることになり、私の研究室も美術学部の他の先生の研究室と一緒に「克雪ダイナモ・アートプロジェクト」として参加しました。会場は、廃校になってしまっている仙田小学校と仙田保育園。私の研究室は、オープニングの7月26日から8月3日まで同僚の熊倉純子さんと東京大学の吉見俊哉さんと一緒に「仙田保育園大学」というプロジェクトを行いました。<br><br>
克雪ダイナモ・アートプロジェクト<br>
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/artworks/index.php?id=468<br>
仙田保育園大学<br>
http://sendauniv.web.fc2.com/<br><br>
　これは、小学校と同じように三月に廃校になった仙田保育園を期間限定の大学として蘇らせようとした企画です。「大学」といっても大げさなものではありません。誰でも先生や生徒になれる交流の場を作ったのです。<br><br>
　作曲家の安野太郎さんの「音楽映画」という作品のワークショップや演奏会、学生たちの研究や作品発表、地元の方々による「食と文化」講義（実際には料理教室です）など盛りだくさんの企画で一週間はあっという間にすぎました。おかげさまで、地元の人に支えられてプロジェクトそのものは大盛況。毎日のように食事やお酒を差し入れてくれた仙田のみなさんに大感謝です。夜遅くまで会場で歓談する日々が続きました。<br><br>
　ところで、仙田保育園大学はいったん休校になりましたが（もし機会があれば復活したい！）、「大地の芸術祭」は9月13日まで続きます。今年新たに設置されたアントニー・ゴームリーの作品や富山妙子の「全仕事展1950－2009」、もちろん前回に引き続いて観ることができるボルタンスキーとカルマンの「最後の学校」、アブラモヴィッチの「夢の家」など、みどころは満載ですが、それ以上に空家や廃校を使ったプロジェクトが増えていることに注意してほしいと思います。私たちの「克雪ダイナモ」もそのひとつです。<br><br>
　空家や廃校がアートプロジェクトとして再生していくことはアートシーンにとって興味深いことですが、裏を返せば、こうした大型アートプロジェクトにもかかわらず、越後妻有の日常生活が、トリエンナーレが始まった10年前と比べても確実に疲弊していることがわかります。皮肉なことですが、過疎化の過程で人が少なくなっている部分をアートが埋めていっているようにも見えるのです。これが10年続くとアートだけが残って、それを楽しむ人がいないという悪夢的な近未来的ＳＦのような時代が来る可能性さえあります（そしてそれだけはぜったいに（！）避けなければいけません）。<br><br>
　今回私の記憶に最も残った作品は、大倉という集落で行われている近藤美智子の「‘Home’project」です。この大倉には、もうおじいちゃんが一人残っているだけだといいます。これは、空家になった村落の家ひとつひとつに夕暮れ後、電気をつけて明滅させるという作品ですが、光に浮かび上がる集落の静かな美しさが、なんともいえない厳しい現実を思い起こさせます。光のアートは人々が戻ってくることをあたかも待っているかのようにみえるのです。私たちは今こそ「限界集落」や「消滅集落」と呼ばれる、コミュニティの再生産機能を失った集落が加速度的に増えつつある、日本の村落の未来を考える時期に来ているのです。<br><br>
近藤美智子「‘Home’project」<br>
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/artworks/index.php?id=470<br style="clear: both;">]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/b1988/90029/70156_pcl.jpg" class="entryImage" />　さて、久しぶりの書き込みです。言い訳をすれば、このところ新しい本の執筆に追われてほかのことが全く止まってしまっていました。やっと出版されたので、もとのペースに戻れると思います。本の方もぜひ手にとってみてくださいね。<br><br>『ストリートの思想――転換期としての90年代』ＮＨＫブックス<br>
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4140911395/<br><br>
　さて、「大地の芸術祭：越後妻有トリエンナーレ2009」が始まりました。トリエンナーレとは三年に一度という意味。「大地の芸術祭」は、三年に一度、新潟県の越後妻有（十日町市、津南町）で開催される現代美術のお祭りです。東京23区より広い地域に370もの作品が点在する、日本最大のアートイヴェントと言ってもいいでしょう。<br>
大地の芸術祭：越後妻有トリエンナーレ2009<br>
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/index.html<br><br>
　今年は、私が職場の東京芸術大学が大学として関わることになり、私の研究室も美術学部の他の先生の研究室と一緒に「克雪ダイナモ・アートプロジェクト」として参加しました。会場は、廃校になってしまっている仙田小学校と仙田保育園。私の研究室は、オープニングの7月26日から8月3日まで同僚の熊倉純子さんと東京大学の吉見俊哉さんと一緒に「仙田保育園大学」というプロジェクトを行いました。<br><br>
克雪ダイナモ・アートプロジェクト<br>
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/artworks/index.php?id=468<br>
仙田保育園大学<br>
http://sendauniv.web.fc2.com/<br><br>
　これは、小学校と同じように三月に廃校になった仙田保育園を期間限定の大学として蘇らせようとした企画です。「大学」といっても大げさなものではありません。誰でも先生や生徒になれる交流の場を作ったのです。<br><br>
　作曲家の安野太郎さんの「音楽映画」という作品のワークショップや演奏会、学生たちの研究や作品発表、地元の方々による「食と文化」講義（実際には料理教室です）など盛りだくさんの企画で一週間はあっという間にすぎました。おかげさまで、地元の人に支えられてプロジェクトそのものは大盛況。毎日のように食事やお酒を差し入れてくれた仙田のみなさんに大感謝です。夜遅くまで会場で歓談する日々が続きました。<br><br>
　ところで、仙田保育園大学はいったん休校になりましたが（もし機会があれば復活したい！）、「大地の芸術祭」は9月13日まで続きます。今年新たに設置されたアントニー・ゴームリーの作品や富山妙子の「全仕事展1950－2009」、もちろん前回に引き続いて観ることができるボルタンスキーとカルマンの「最後の学校」、アブラモヴィッチの「夢の家」など、みどころは満載ですが、それ以上に空家や廃校を使ったプロジェクトが増えていることに注意してほしいと思います。私たちの「克雪ダイナモ」もそのひとつです。<br><br>
　空家や廃校がアートプロジェクトとして再生していくことはアートシーンにとって興味深いことですが、裏を返せば、こうした大型アートプロジェクトにもかかわらず、越後妻有の日常生活が、トリエンナーレが始まった10年前と比べても確実に疲弊していることがわかります。皮肉なことですが、過疎化の過程で人が少なくなっている部分をアートが埋めていっているようにも見えるのです。これが10年続くとアートだけが残って、それを楽しむ人がいないという悪夢的な近未来的ＳＦのような時代が来る可能性さえあります（そしてそれだけはぜったいに（！）避けなければいけません）。<br><br>
　今回私の記憶に最も残った作品は、大倉という集落で行われている近藤美智子の「‘Home’project」です。この大倉には、もうおじいちゃんが一人残っているだけだといいます。これは、空家になった村落の家ひとつひとつに夕暮れ後、電気をつけて明滅させるという作品ですが、光に浮かび上がる集落の静かな美しさが、なんともいえない厳しい現実を思い起こさせます。光のアートは人々が戻ってくることをあたかも待っているかのようにみえるのです。私たちは今こそ「限界集落」や「消滅集落」と呼ばれる、コミュニティの再生産機能を失った集落が加速度的に増えつつある、日本の村落の未来を考える時期に来ているのです。<br><br>
近藤美智子「‘Home’project」<br>
http://www.echigo-tsumari.jp/2009/artworks/index.php?id=470<br style="clear: both;"><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/qUDfhtn-Me8" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2009-08-24T10:55:49+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20090323001.html">
    <title>vol.42 恍惚の組合？：ユニオンエクスタシー＠京都大学</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/z6hAM_n0QsE/E20090323001.html</link>
    <description><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/81655/90029/49992_pcl.jpg" class="entryImage" />　私は８０年代半ばに京都大学で四年間を過ごしました。「少年タケシ」の福原編集長に会ったのも実はその頃です。８０年代といえば、田中康夫が『なんとなく、クリスタル』を発表し、その後のバブル景気に向かって消費社会が成熟というか爛熟していく時代でしたが、京都大学にはその波がほとんど届くこともなく、あいかわらず古色蒼然とした雰囲気が漂っていました。<br><br>　特に東京の大学ではほとんど見られなくなった学生たちの政治運動が依然としてそれなりに残っていたので、一部では「ガラパゴス」なんて呼ばれていました。今では絶滅してしまった希少生物がまだ生きていて、独特の進化を遂げているという皮肉がこもった呼び名でしたが、呼ばれたほうは逆に喜んだりしていたようです。ちなみに経済学部の地下の学部自治会の隣に「ガラパゴス・カフェ」というのがありましたが、その名前の由来でもあります。<br><br>
　今でも時々思い出したように大学に行く機会があるのですが、「ガラパゴス」状態は、一時ほどではないにしてもいろいろな形で継承されているようです。最近では京都大学のサークル活動や政治運動の重要な情報発信の場だった石垣を守ろうという「石垣カフェ」という運動――といっても石垣の上でカフェをやりつつ反対キャンペーンをするといういたってのんびりしたものですが――が、話題になったりしました。<br><br>
　で、「ユニオンエクスタシー」です。これは、図書館の時間雇用職員たちが2007年に作った労働組合です。大学という組織は、外からみるとわかりにくいのですが、実は非常に多くの非常勤の先生や職員の力で動いているものです。そして、その多くは大学という特殊な組織の中でとても低い賃金で働くことを余儀なくされています。<br><br>
　「ユニオンエクスタシー」は、こうした状況の改善を求めて結成された非正規職員二人による労働組合です。大学にはもともと正規の教職員の労働組合がありますが、それが正規教職員の既得権益を守ることに中心をおきがちなのに対して、それよりもはるかに立場の弱い非正規職員の権利を守ることを中心にしていることにその特徴があります。<br><br>
　その「ユニオンエクスタシー」が、最近になって時間雇用職員の５年雇い止め条項の撤廃を求めた運動が一部で話題を集めています。時給計算で勤務している非常勤教職員は毎年契約更新しているのですが、この５年雇い止め条項というのは、その更新の上限が５年を超えないものとするというものです。今京都大学では、２６００人の非常勤教職員がいますがこの条項が適応されると２０１０年度には１００人が雇い止めにあうといいます。<br><br>
　これに抗議して、「ユニオンエクスタシー」は、今年の２月中旬に京都大学の正門前にテントを張り、「首切り派遣村」を設置し、ストライキに突入しました。この運動は面白いのは、その組合のネーミングのポップさもさることながら、やはりさまざまな文化運動的な側面があることです。<br><br>
　まずテントの前に大きな魚の頭をどーんとおいて、「首切り」名づけた作品展示（？）をしました。さらに、彼らは、二月末の入学試験期間中に、移動式のドラム缶風呂を「首切り派遣村」に持ち込んで、裸でお風呂に入りながら、「京都大学はすべての受験生を合格させろ」「首切り反対」を叫ぶというゲリラ的なパフォーマンスを行いました。そもそも大学の中にこたつをおいて無期限ストをすること自体パフォーマンス的な要素が強いものです。今後も映画の上映やライブなどいろんなイベントが用意されているようです。<br><br>
　そのようすはYouTubeでも見ることができます。特にドラム缶風呂のパフォーマンスは、賛否両論のようです。その「やりすぎ」の感じのために、まじめな運動とは思えない人がいるかもしれません。<br><br>
　けれども、私にはその過剰さこそがこの「ユニオンエクスタシー」の魅力に思えます。そもそも六〇年代の前衛舞踏やパフォーマンスであれば、この移動式のドラム缶風呂のような「裸」の表現はたくさんみられました。また、それは当時の騒然とした政治の雰囲気もあって、しばしば政治的な表現としても使われてしまいました。<br><br>
　戦後の政治は、こうした表現を飼いならして隠蔽していくことと、政治のラディカルさを飼いならし穏健化していくことをセットで進めてきました。「ユニオンエクスタシー」は、この政治と文化の隠蔽の共犯関係を暴いているようにみえます。そして、その主体がもはや学生ではなく、そこで働く非常勤職員であることに、今日の問題の本質があるように思えます。<br><br>
ユニオンエクスタシー・ホームページ<br>
http://extasy07.exblog.jp/5773358<br><br>
「首切り職員村」ストのようす<br>
http://www.youtube.com/watch?v=k2W8yb2x7DQ<br>
http://www.youtube.com/watch?v=2SZaT-4Y7oQ<br style="clear: both;">]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/81655/90029/49992_pcl.jpg" class="entryImage" />　私は８０年代半ばに京都大学で四年間を過ごしました。「少年タケシ」の福原編集長に会ったのも実はその頃です。８０年代といえば、田中康夫が『なんとなく、クリスタル』を発表し、その後のバブル景気に向かって消費社会が成熟というか爛熟していく時代でしたが、京都大学にはその波がほとんど届くこともなく、あいかわらず古色蒼然とした雰囲気が漂っていました。<br><br>　特に東京の大学ではほとんど見られなくなった学生たちの政治運動が依然としてそれなりに残っていたので、一部では「ガラパゴス」なんて呼ばれていました。今では絶滅してしまった希少生物がまだ生きていて、独特の進化を遂げているという皮肉がこもった呼び名でしたが、呼ばれたほうは逆に喜んだりしていたようです。ちなみに経済学部の地下の学部自治会の隣に「ガラパゴス・カフェ」というのがありましたが、その名前の由来でもあります。<br><br>
　今でも時々思い出したように大学に行く機会があるのですが、「ガラパゴス」状態は、一時ほどではないにしてもいろいろな形で継承されているようです。最近では京都大学のサークル活動や政治運動の重要な情報発信の場だった石垣を守ろうという「石垣カフェ」という運動――といっても石垣の上でカフェをやりつつ反対キャンペーンをするといういたってのんびりしたものですが――が、話題になったりしました。<br><br>
　で、「ユニオンエクスタシー」です。これは、図書館の時間雇用職員たちが2007年に作った労働組合です。大学という組織は、外からみるとわかりにくいのですが、実は非常に多くの非常勤の先生や職員の力で動いているものです。そして、その多くは大学という特殊な組織の中でとても低い賃金で働くことを余儀なくされています。<br><br>
　「ユニオンエクスタシー」は、こうした状況の改善を求めて結成された非正規職員二人による労働組合です。大学にはもともと正規の教職員の労働組合がありますが、それが正規教職員の既得権益を守ることに中心をおきがちなのに対して、それよりもはるかに立場の弱い非正規職員の権利を守ることを中心にしていることにその特徴があります。<br><br>
　その「ユニオンエクスタシー」が、最近になって時間雇用職員の５年雇い止め条項の撤廃を求めた運動が一部で話題を集めています。時給計算で勤務している非常勤教職員は毎年契約更新しているのですが、この５年雇い止め条項というのは、その更新の上限が５年を超えないものとするというものです。今京都大学では、２６００人の非常勤教職員がいますがこの条項が適応されると２０１０年度には１００人が雇い止めにあうといいます。<br><br>
　これに抗議して、「ユニオンエクスタシー」は、今年の２月中旬に京都大学の正門前にテントを張り、「首切り派遣村」を設置し、ストライキに突入しました。この運動は面白いのは、その組合のネーミングのポップさもさることながら、やはりさまざまな文化運動的な側面があることです。<br><br>
　まずテントの前に大きな魚の頭をどーんとおいて、「首切り」名づけた作品展示（？）をしました。さらに、彼らは、二月末の入学試験期間中に、移動式のドラム缶風呂を「首切り派遣村」に持ち込んで、裸でお風呂に入りながら、「京都大学はすべての受験生を合格させろ」「首切り反対」を叫ぶというゲリラ的なパフォーマンスを行いました。そもそも大学の中にこたつをおいて無期限ストをすること自体パフォーマンス的な要素が強いものです。今後も映画の上映やライブなどいろんなイベントが用意されているようです。<br><br>
　そのようすはYouTubeでも見ることができます。特にドラム缶風呂のパフォーマンスは、賛否両論のようです。その「やりすぎ」の感じのために、まじめな運動とは思えない人がいるかもしれません。<br><br>
　けれども、私にはその過剰さこそがこの「ユニオンエクスタシー」の魅力に思えます。そもそも六〇年代の前衛舞踏やパフォーマンスであれば、この移動式のドラム缶風呂のような「裸」の表現はたくさんみられました。また、それは当時の騒然とした政治の雰囲気もあって、しばしば政治的な表現としても使われてしまいました。<br><br>
　戦後の政治は、こうした表現を飼いならして隠蔽していくことと、政治のラディカルさを飼いならし穏健化していくことをセットで進めてきました。「ユニオンエクスタシー」は、この政治と文化の隠蔽の共犯関係を暴いているようにみえます。そして、その主体がもはや学生ではなく、そこで働く非常勤職員であることに、今日の問題の本質があるように思えます。<br><br>
ユニオンエクスタシー・ホームページ<br>
http://extasy07.exblog.jp/5773358<br><br>
「首切り職員村」ストのようす<br>
http://www.youtube.com/watch?v=k2W8yb2x7DQ<br>
http://www.youtube.com/watch?v=2SZaT-4Y7oQ<br style="clear: both;"><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/z6hAM_n0QsE" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2009-03-23T11:20:48+09:00</dc:date>
  <feedburner:origLink>http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20090323001.html</feedburner:origLink></item>
  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20090302001.html">
    <title>vol.41 ラジオタケシ＠アキハバラ</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/XgOC_EIbfyU/E20090302001.html</link>
    <description><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/ef237/90029/49993_pcl.jpg" class="entryImage" />　お久しぶりです。年末、年始はなんやかんやと忙しく、すっかりと更新が滞っていました。ようやく一段落したので、また復帰します。よろしくお願いします。<br><br>　とはいえ、まったくこの「少年タケシ」をサボっていたわけではありません。編集長の日記にも書いてありますが、２月１４日バレンタインデーに開催された「第４回タケシ学院」に参加してラジオのワークショップをやりました。<br><br>
　いつもの作家の方々に交じって初めての参加だったので、どうなることやらと内心ドキドキしていたのですが、元気な女の子たちが５人参加してくれたので、楽しくワークショップをすることができました。参加してくれたみなさん、本当にありがとうございます。<br><br>
　「なぜラジオがDiY文化なのか」ということについては、これまでにも機会があるごとに書いてきましたが、あらためてワークショップを通じて、やっぱりラジオは力があると痛感しました。<br><br>
　実際、ラジオはほかのメディアに比べて簡単な仕組みです。今回使った電波を飛ばすトラスミッターも秋葉原で数千円で入手できるものですし、マイクからミキサー、トランスミッターを経由してアンテナから電波が飛ばすようすは、目の前で確認できます。<br><br>
　たとえばポッドキャストなどのインターネットラジオが最近はやっていますが、電波を使ったミニラジオは、そうしたものに比べてもはるかにシンプルに見えます。ＦＭ電波を使った音質も必ずしも最高のものではなく、ちょっと離れたり、障害物があるだけでもノイズが混ざったりします。けれどもそうしたローテクな感じもまた魅力だったりするのです。<br><br>
　今回ワークショップで感心したのは、ヘッドホンをつけてマイクを前にした瞬間に、子供たちがしっかりと話を始めることでした。<br><br>
　ワークショップのテーマにしたメディアリテラシーの「リテラシー」というのは、日本語では「読み書き能力」と訳されます。活字メディアは、学校教育の中で読むことと書くことを同時に教えるのですが、テレビやラジオのような電波メディアでは、見たり聴いたりする能力はなんとなく自然に学ぶ（これも本当は怪しいのですが）だけで、見せたり話をしたりする発信能力はほとんど教えられることがありません。その結果、人々はどうしても受動的な受け手になってしまいます。<br><br>
　でも、ワークショップに参加した子供たちは、きっかけさえあれば、きちんと話ができるし、場合によっては職業でラジオを作っている人たちよりも、「生」の声を伝える力があるということを、はっきりと私たちに教えてくれました。テーマがバレンタインデーで、参加者が全員女の子だったこともプラスに働いたようです（ガールズトーク炸裂でしたね）。これを続ければ、本当のアナウンサーになる人も生まれるような気がします。<br><br>
　今日はせっかくなので、今回私のプロジェクト（通常の大学で言えば、ゼミに相当する）の学生と一緒に、ワークショップを手伝ってくれたコジマラジオに感謝を込めて、少しだけ紹介しておきたいと思います。<br><br>
　コジマラジオは、東京藝術大学が借りている台東区の旧小島小学校を改装してできた小島アートプラザのスタジオを中心としているラジオ・アートのグループです。コジマラジオはこれまでも旧小島小学校からミニＦＭ放送を行うほかに、銀座のギャラリーで展示パフォーマンスを行ってきました。<br><br>
　メンバーは、油画科の毛原大樹くんや先端芸術表現科の安藤瑠美さん、建築科の森純平さんのほか、プロジェクトに合わせて流動的に参加者が集まって、チームが作られます。今回のラジオタケシには、これに私の属する音楽環境創造科の林紀子さん、聞谷洋子さん、吉田みさとさんに、アイスランドからの留学生アルニ・クリスチャンソンくんが加わりました。<br><br>
　私が最初にコジマラジオに出会ったのは、昨年の３月のアントニオ・ネグリというイタリアの思想家の来日企画の時でした。結局ネグリは、つまらないトラブルで来日することができなかったのですが、その時に東京藝術大学の会場でラジオ放送を企画していたのがコジマラジオでした。<br><br>
　その後せっかくだから一緒に何かやろうということになり始めたのが、「つなげラジオ」というプロジェクトです。これは、日本に住む外国人学校に出張をしてラジオ放送をやろうというものでした。普段日本の社会では見えない存在に追いやられている在日外国人に声を与えつつ、民族を越えて連帯を図ろうとしたのです。昨年の４月から８月の間「在日外国人地域ボランティアネットワーク」と一緒にトヨタ財団の助成金を得て、ブラジル人学校や朝鮮学校にでかけて音や映像のワークショップをしていました。<br><br>
　コジマラジオが面白いのは、子供たちも楽しめるワークショップなのですが、その一方で単なるラジオ放送ではなく、コミュニケーションの場全体を作り出そうしているところです。今回も森純平くんがデザイン制作した、ラジオタケシのブースがどーんと会場にすえつけられ、手作りラジオ局の「味」を演出していました。それぞれの企画も、新しい形の参加型アートと考えられます。なによりも、ラジオ電波という非物質的な素材を使って「空間」を作り上げているところは、伝統的な美術の形式に対するラディカルな批評とでもいえるかもしれません。今回の企画は、こうしたコジマラジオの持ち味が、秋葉原という場所の特殊性と、参加してくれた子どもたちのすばらしさによってうまく機能したように思います。<br><br>
　編集長によれば、今後また「タケシ学院」も続くとのこと。機会があれば、またワークショップに参加したいと思います。今回参加した子供たちがまた集まれると楽しいだろうし。編集長、よろしくね。<br><br>
コジマラジオ<br>
http://kojimarajio.web.fc2.com/index.htm<br>
つなげラジオ<br>
http://tsunage-radio.com/<br>
在日外国人地域ボランティアネットワーク<br>
http://www.zainichi.net/<br style="clear: both;">]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/ef237/90029/49993_pcl.jpg" class="entryImage" />　お久しぶりです。年末、年始はなんやかんやと忙しく、すっかりと更新が滞っていました。ようやく一段落したので、また復帰します。よろしくお願いします。<br><br>　とはいえ、まったくこの「少年タケシ」をサボっていたわけではありません。編集長の日記にも書いてありますが、２月１４日バレンタインデーに開催された「第４回タケシ学院」に参加してラジオのワークショップをやりました。<br><br>
　いつもの作家の方々に交じって初めての参加だったので、どうなることやらと内心ドキドキしていたのですが、元気な女の子たちが５人参加してくれたので、楽しくワークショップをすることができました。参加してくれたみなさん、本当にありがとうございます。<br><br>
　「なぜラジオがDiY文化なのか」ということについては、これまでにも機会があるごとに書いてきましたが、あらためてワークショップを通じて、やっぱりラジオは力があると痛感しました。<br><br>
　実際、ラジオはほかのメディアに比べて簡単な仕組みです。今回使った電波を飛ばすトラスミッターも秋葉原で数千円で入手できるものですし、マイクからミキサー、トランスミッターを経由してアンテナから電波が飛ばすようすは、目の前で確認できます。<br><br>
　たとえばポッドキャストなどのインターネットラジオが最近はやっていますが、電波を使ったミニラジオは、そうしたものに比べてもはるかにシンプルに見えます。ＦＭ電波を使った音質も必ずしも最高のものではなく、ちょっと離れたり、障害物があるだけでもノイズが混ざったりします。けれどもそうしたローテクな感じもまた魅力だったりするのです。<br><br>
　今回ワークショップで感心したのは、ヘッドホンをつけてマイクを前にした瞬間に、子供たちがしっかりと話を始めることでした。<br><br>
　ワークショップのテーマにしたメディアリテラシーの「リテラシー」というのは、日本語では「読み書き能力」と訳されます。活字メディアは、学校教育の中で読むことと書くことを同時に教えるのですが、テレビやラジオのような電波メディアでは、見たり聴いたりする能力はなんとなく自然に学ぶ（これも本当は怪しいのですが）だけで、見せたり話をしたりする発信能力はほとんど教えられることがありません。その結果、人々はどうしても受動的な受け手になってしまいます。<br><br>
　でも、ワークショップに参加した子供たちは、きっかけさえあれば、きちんと話ができるし、場合によっては職業でラジオを作っている人たちよりも、「生」の声を伝える力があるということを、はっきりと私たちに教えてくれました。テーマがバレンタインデーで、参加者が全員女の子だったこともプラスに働いたようです（ガールズトーク炸裂でしたね）。これを続ければ、本当のアナウンサーになる人も生まれるような気がします。<br><br>
　今日はせっかくなので、今回私のプロジェクト（通常の大学で言えば、ゼミに相当する）の学生と一緒に、ワークショップを手伝ってくれたコジマラジオに感謝を込めて、少しだけ紹介しておきたいと思います。<br><br>
　コジマラジオは、東京藝術大学が借りている台東区の旧小島小学校を改装してできた小島アートプラザのスタジオを中心としているラジオ・アートのグループです。コジマラジオはこれまでも旧小島小学校からミニＦＭ放送を行うほかに、銀座のギャラリーで展示パフォーマンスを行ってきました。<br><br>
　メンバーは、油画科の毛原大樹くんや先端芸術表現科の安藤瑠美さん、建築科の森純平さんのほか、プロジェクトに合わせて流動的に参加者が集まって、チームが作られます。今回のラジオタケシには、これに私の属する音楽環境創造科の林紀子さん、聞谷洋子さん、吉田みさとさんに、アイスランドからの留学生アルニ・クリスチャンソンくんが加わりました。<br><br>
　私が最初にコジマラジオに出会ったのは、昨年の３月のアントニオ・ネグリというイタリアの思想家の来日企画の時でした。結局ネグリは、つまらないトラブルで来日することができなかったのですが、その時に東京藝術大学の会場でラジオ放送を企画していたのがコジマラジオでした。<br><br>
　その後せっかくだから一緒に何かやろうということになり始めたのが、「つなげラジオ」というプロジェクトです。これは、日本に住む外国人学校に出張をしてラジオ放送をやろうというものでした。普段日本の社会では見えない存在に追いやられている在日外国人に声を与えつつ、民族を越えて連帯を図ろうとしたのです。昨年の４月から８月の間「在日外国人地域ボランティアネットワーク」と一緒にトヨタ財団の助成金を得て、ブラジル人学校や朝鮮学校にでかけて音や映像のワークショップをしていました。<br><br>
　コジマラジオが面白いのは、子供たちも楽しめるワークショップなのですが、その一方で単なるラジオ放送ではなく、コミュニケーションの場全体を作り出そうしているところです。今回も森純平くんがデザイン制作した、ラジオタケシのブースがどーんと会場にすえつけられ、手作りラジオ局の「味」を演出していました。それぞれの企画も、新しい形の参加型アートと考えられます。なによりも、ラジオ電波という非物質的な素材を使って「空間」を作り上げているところは、伝統的な美術の形式に対するラディカルな批評とでもいえるかもしれません。今回の企画は、こうしたコジマラジオの持ち味が、秋葉原という場所の特殊性と、参加してくれた子どもたちのすばらしさによってうまく機能したように思います。<br><br>
　編集長によれば、今後また「タケシ学院」も続くとのこと。機会があれば、またワークショップに参加したいと思います。今回参加した子供たちがまた集まれると楽しいだろうし。編集長、よろしくね。<br><br>
コジマラジオ<br>
http://kojimarajio.web.fc2.com/index.htm<br>
つなげラジオ<br>
http://tsunage-radio.com/<br>
在日外国人地域ボランティアネットワーク<br>
http://www.zainichi.net/<br style="clear: both;"><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/XgOC_EIbfyU" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2009-03-02T12:41:57+09:00</dc:date>
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  <item rdf:about="http://blog.fujitv.co.jp/takeshi_diy/E20081208001.html">
    <title>vol.40 ガール・トーク：過激なマッシュアップ・サウンドとクリエイティヴ・コモンズ</title>
    <link>http://feedproxy.google.com/~r/takeshi/diy/~3/hsBK_FWfVjw/E20081208001.html</link>
    <description><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/f2181/90029/49994_pcl.jpg" class="entryImage" />　ガール・トークのことを初めて聞いたのは、金谷憲さんからでした。金谷さんは、「ひげビジョン」というブログ（プロジェクト、というべきか？）で、あれこれ奇妙なフリーアート系の作品や政治的な動向などを紹介している人です。最初に会ったときに、金谷さんが「mixi」のガール・トークのコミュニティの管理人のことをやっていることを聞いていたのですが、最近映像や音源と一緒に金谷さんの話をあらためて伺って以来、目下のところ私のヘビーローテーションになっています。<br />　ガール・トークは、DJグレッグ・ギルズの個人プロジェクトで、「マッシュアップ」としてしばしば括られる音楽の代表的なアーティストです。「マッシュアップ」というのは、いろいろな音楽の一部分を細かくサンプリングし、それをリミックスすることで曲を作るというものです。こう言ってしまうと身も蓋もなく、新しくも何ともないように聞こえるかもしれませんが、原曲を細かく切り刻み、ズタズタにしながらなされるそのミックスの過激さは、ガール・トークやデインジャー・マウスなど新しい世代の「マッシュアップ系」のアーティストを、決定的に新しい動きへと押し上げつつあります。<br />
　2002年に発表されたガール・トークのファーストCD『Secret Diary』は、実験色の強いものでしたが、その後徐々にダンサブルなサウンドとなり、今年になってリリースされた４枚目のCD『Feed the Animals』は、50分強のアルバムの中になんと250もの曲がサンプリングされ、マッシュアップの集大成ともいえるポップな作品になっています。<br />
　ガール・トークが面白いのは、その音楽もさることながら、音楽の著作権や作家性という概念に対するその明確なメッセージです。この連載の中でもなんどか、「クリエイティヴ・コモンズ（CC）」について紹介してきましたが、ガール・トークはこの「クリエイティヴ・、コモンズ」の運動にも深く関わっており、その提唱者ローレンス・レッシグの講演会とセットでライブイベントを行ったりしてきました。<br />
　実際に『Feed the Animals』は、クリエイティヴ・コモンズの「表示・非営利（一定の規則にのっとり原著作者を表示し、非営利の使用に限る）」というカテゴリーとして発表されています（しばしば、誤解されていますが、クリエイティヴ・コモンズは何でも自由に複製していい、という主張をしているわけではありません。一定の規則に基づいて「共有する」資源と作っていこうというものです。一応念のため）。<br />
　このアルバムはインターネットでダウンロード購入することができ、購入者が自由に価格を決めることができます。mp3であれば無料でも（とはいえ、その場合は理由を書く必要あり）ダウンロードすることができ、５ドル以上出せば、さらに高品質の音源が得られます。１０ドル払えばCDのパッケージを買うこともできます。レディオヘッドが『イン・レインボウズ』で行ったプロジェクトの延長線ともいえますが、料金の設定の細かさを考えればさらに進化した形態といえるでしょう。<br />
　もうひとつ、ガール・トークがヘンなのは、そのライヴパフォーマンスです。基本的にラップトップを使った演奏なのでクールに淡々とやればよさそうなものですが、なぜか上半身裸になってステージを走り回ったりして、汗いっぱいの肉体的な獰猛なライヴです。これがレッシグの講演なんかと組み合わさっているところに、アメリカのクリエイティヴ・コモンズの運動の広がりを感じることができます。<br />
　日本では、クリエイティヴ・コモンズが、どことなくビジネス主導のニュアンスで紹介されているのは残念なことです。坂本龍一さんや何人かのミュージシャンが実際にクリエイティヴ・コモンズ・ライセンスで作品を発表していますが、まだまだデジタル音楽の持っているポテンシャルに制度が追いついていません。こうした「マッシュアップ系」のミュージシャンや、ガール・トークのような新世代のアーティストが日本でも増えると、クリエイティヴ・コモンズの重要性がもっと認識されるにちがいありません。<br /><br /><br />
Feed the Animals』ダウンロードページ<br />
http://74.124.198.47/illegal-art.net/__girl__talk___feed__the__anima.ls___/<br /><br />
ガール・トーク　Myspace<br />
http://www.myspace.com/girltalk<br /><br />
Wikipediaで『Feed the Animals』が使っている音源をチェックできます。<br />
http://en.wikipedia.org/wiki/Feed_the_Animals<br style="clear: both;">]]></description>
    <content:encoded><![CDATA[<br/><img    align="left" style="float:left" src="http://blogc.fujitv.co.jp/simg/blogimg/f2181/90029/49994_pcl.jpg" class="entryImage" />　ガール・トークのことを初めて聞いたのは、金谷憲さんからでした。金谷さんは、「ひげビジョン」というブログ（プロジェクト、というべきか？）で、あれこれ奇妙なフリーアート系の作品や政治的な動向などを紹介している人です。最初に会ったときに、金谷さんが「mixi」のガール・トークのコミュニティの管理人のことをやっていることを聞いていたのですが、最近映像や音源と一緒に金谷さんの話をあらためて伺って以来、目下のところ私のヘビーローテーションになっています。<br />　ガール・トークは、DJグレッグ・ギルズの個人プロジェクトで、「マッシュアップ」としてしばしば括られる音楽の代表的なアーティストです。「マッシュアップ」というのは、いろいろな音楽の一部分を細かくサンプリングし、それをリミックスすることで曲を作るというものです。こう言ってしまうと身も蓋もなく、新しくも何ともないように聞こえるかもしれませんが、原曲を細かく切り刻み、ズタズタにしながらなされるそのミックスの過激さは、ガール・トークやデインジャー・マウスなど新しい世代の「マッシュアップ系」のアーティストを、決定的に新しい動きへと押し上げつつあります。<br />
　2002年に発表されたガール・トークのファーストCD『Secret Diary』は、実験色の強いものでしたが、その後徐々にダンサブルなサウンドとなり、今年になってリリースされた４枚目のCD『Feed the Animals』は、50分強のアルバムの中になんと250もの曲がサンプリングされ、マッシュアップの集大成ともいえるポップな作品になっています。<br />
　ガール・トークが面白いのは、その音楽もさることながら、音楽の著作権や作家性という概念に対するその明確なメッセージです。この連載の中でもなんどか、「クリエイティヴ・コモンズ（CC）」について紹介してきましたが、ガール・トークはこの「クリエイティヴ・、コモンズ」の運動にも深く関わっており、その提唱者ローレンス・レッシグの講演会とセットでライブイベントを行ったりしてきました。<br />
　実際に『Feed the Animals』は、クリエイティヴ・コモンズの「表示・非営利（一定の規則にのっとり原著作者を表示し、非営利の使用に限る）」というカテゴリーとして発表されています（しばしば、誤解されていますが、クリエイティヴ・コモンズは何でも自由に複製していい、という主張をしているわけではありません。一定の規則に基づいて「共有する」資源と作っていこうというものです。一応念のため）。<br />
　このアルバムはインターネットでダウンロード購入することができ、購入者が自由に価格を決めることができます。mp3であれば無料でも（とはいえ、その場合は理由を書く必要あり）ダウンロードすることができ、５ドル以上出せば、さらに高品質の音源が得られます。１０ドル払えばCDのパッケージを買うこともできます。レディオヘッドが『イン・レインボウズ』で行ったプロジェクトの延長線ともいえますが、料金の設定の細かさを考えればさらに進化した形態といえるでしょう。<br />
　もうひとつ、ガール・トークがヘンなのは、そのライヴパフォーマンスです。基本的にラップトップを使った演奏なのでクールに淡々とやればよさそうなものですが、なぜか上半身裸になってステージを走り回ったりして、汗いっぱいの肉体的な獰猛なライヴです。これがレッシグの講演なんかと組み合わさっているところに、アメリカのクリエイティヴ・コモンズの運動の広がりを感じることができます。<br />
　日本では、クリエイティヴ・コモンズが、どことなくビジネス主導のニュアンスで紹介されているのは残念なことです。坂本龍一さんや何人かのミュージシャンが実際にクリエイティヴ・コモンズ・ライセンスで作品を発表していますが、まだまだデジタル音楽の持っているポテンシャルに制度が追いついていません。こうした「マッシュアップ系」のミュージシャンや、ガール・トークのような新世代のアーティストが日本でも増えると、クリエイティヴ・コモンズの重要性がもっと認識されるにちがいありません。<br /><br /><br />
Feed the Animals』ダウンロードページ<br />
http://74.124.198.47/illegal-art.net/__girl__talk___feed__the__anima.ls___/<br /><br />
ガール・トーク　Myspace<br />
http://www.myspace.com/girltalk<br /><br />
Wikipediaで『Feed the Animals』が使っている音源をチェックできます。<br />
http://en.wikipedia.org/wiki/Feed_the_Animals<br style="clear: both;"><img src="http://feeds.feedburner.com/~r/takeshi/diy/~4/hsBK_FWfVjw" height="1" width="1"/>]]></content:encoded>
    <dc:creator>毛利嘉孝</dc:creator>
    <dc:date>2008-12-08T12:03:30+09:00</dc:date>
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